ヘッダイメージ



平野氏
丸に三つ鱗/九曜
(桓武平氏北条時政後裔)


 平野氏の祖については、北条時政十三代の後裔横井政持とされている。横井氏は代々、尾張国海東郡赤目の城主であった。政持の長男宗長姉の夫である業忠が平野邑の所領を譲り受けて平野を家号とした。
 平野氏は、津島の”四家・七名字・四姓”の土豪よりなる南朝方「十五党」の一員であった。四家の長は大橋氏で、大永二年に美濃国高須城を築造あるいは修築している。大橋氏は重長のとき、尾張国清洲城主の織田彦五郎と領地を争う。”大橋の乱”である。尾張国には織田信貞の子で勝幡城主織田信秀がいた。重長の室は信秀の娘であったことから、やがて信秀に属するようになった。
 重長の高須在城は天文三年(1534)までで、以後、弘治二年(1556)までは高津直幸が城将となった。そして弘治三年から永禄三年(1560)までは、十五党の”縁者”が守将に名を連ねる。平野長治・鷲巣光康・秋山信純・林長正・稲葉成政などである。このうち、稲葉成政は春日局こと斎藤福を後妻とする人物である。なお十五党には、のち秀吉に仕え、さらには徳川幕府の老中まで上りつめる堀田氏の先祖もいた。

乱世を生きる

 長治の養父・平野賢長は、津島の奴野城に居したが、信長のために没落して加賀国に至り、その後は北条氏康に属して駿河国善徳寺城に住した。さらにまた流浪して津島に還り住んだと伝え、万久と号したとされる。この万久の養子となったのが、長治である、長治は舟橋枝賢の実子で、堀田正貞の女を妻とした。津島に住し、信長・秀吉に仕え、天正十年(1582)には播磨国姫路城の留守居役を命じられている。
 長治のあとを継いだのが三男の長泰である。天正七年より秀吉に仕え、同十一年”賤ケ岳合戦”では旗本六人の士とともに衆に先だって槍を合せ、”賤ケ岳七本槍”の一人として、勇名を顕わした。戦後、河内国・近江国において采地三千石を賜り、感状を与えられている。
 その後、”小牧・長久手の戦い”に功を挙げ、文禄四年には旧功を賞されて感状を賜り、大和国十市郡において五千石を知行し、田原本に住した。慶長三年には豊臣姓を与えられ、従五位下遠江守に叙任している。  関ヶ原の合戦では家康に従い、その後は江戸にあって秀忠に勤仕した。慶長十九年”大坂の陣”にさいしては秀忠の仰せにより駿府に参り、家康より江戸に返して福島正則・黒田長政・加藤嘉明らに加わって本城つまり江戸城を衛るべしとの仰せを蒙る。翌年にも江戸城の御留守居を努め、「特例」をもって一万石、諸侯の列に準じられた。
 長泰は同じ「賤ケ岳七本槍」の加藤清正・福島正則らが、十万石以上の大名となっていくなかで、長く秀吉に仕えながら、一万石に満たない知行しか与えられなかった。これが、秀吉の長泰に対する評価であったのだろう。


■参考略系図
    
 
■清原氏からみた平野氏系図


Ver.1 系図


バック 戦国大名探究 出自事典 地方別武将家 大名一覧