先祖は物部姓弓削氏と伝える。いつのころか三河に移り住んだ。一族は平岩・長坂・都筑の地を領し、それぞれ地名をもっって家号とする。 氏貞のとき今川氏に属し、三河国額田郡坂崎村に住した。同村で平岩と呼ばれる巨岩の名をとって、弓削を改め平岩と称したという。松平氏との臣従関係は重益のときから始まる。重益は信光・親忠・長親の三代にわたって角田郡の代官を歴任した。 大永二年(1522)、松平宗家六代信忠が大浜郷に移るとき、これに従わず坂崎村に閑居した。嫡子親重は、長親・信忠・清康に仕えた。その子が後年、尾張徳川家の付庸大名となった親吉である。親吉は天文十一年の生まれであるから家康と同年齢である。幼少のときから家康に近侍し、織田・今川氏の人質になった家康に随従した。 乱世を生きる 永禄三年(1560)、桶狭間の合戦ののち家康は岡崎城へ帰って独立する。翌年、三河吉田城攻めで武名をあげた。同六年秋、三河一向一揆が蜂起し、一時、家康は危地に陥る。翌年正月、一揆軍が大久保党の籠る上和田砦を包囲したおり、親吉は家康に従って救援に向かい、家臣ながら一揆方に加わった筧正重の放った矢が耳にあたって倒れ、首を取られそうになる。これを見た家康が馬を寄せて正重えお叱咤し、危機を救ったと伝える。 以後、親吉は姉川、三方ケ原、長篠合戦などに従軍、功をたてて君恩に報いる。天正三年(1575)、家康は同盟者織田信長の強請で伯父水野信元を暗殺する。このおり、刺客役を命じられた親吉は、信元を斬ったのち屍を抱き上げ「信元殿に私怨はないが、君命によりやむをえず刃を向け申した」と涙ながらに詫びたという。 これより前、親吉は家康の長男信康の傅役に選ばれた。将来を嘱望された信康であったが、織田信長から、武田勝頼と通じたとの罪を着せられ、切腹を命じられる。親吉は家康に謁して信康を弁護したが、「徳川家安泰のために、信康を犠牲にするしかない」と諭され、親吉の陳弁は通らず、信康は自刃して果てた。親吉は世をはかなみ、家に引き籠った。 その後、家康の再三にわたる招きを拒めず、再仕した親吉は本能寺の変を経て、家康が甲斐を版図に加えると、同国郡代に任じられ一万三千石。家康が関東入国すると三万三千石に加封されて、上野国厩橋城を守る。親吉には実子がなく、家康の八男仙千代を養子に迎えたが、夭折してしまった。 慶長八年、仙千代の同母弟義直が尾張国を領すると、その付家老に任じられ十二万三千石に加封された。国政を管掌し、尾張家の基礎固めに尽力した親吉は慶長十六年に世を去った。仙千代亡きあとは跡継ぎをあえて望まず、無嗣絶家となった。 ■参考略系図 |