鎌倉幕府の功臣佐々木定綱の流れ。定綱の子信綱の曾孫にあたる高島泰氏の子師綱が近江国高島郡平井を領して、以後平井氏を称したもの。また、『尊卑分脈』によれば、泰氏が平井に居住して初めてこの姓を名乗ったとある。高島七頭と呼ばれて数家を輩出したが、確実な系統を跡づけるのは困難である。『尊卑分脈』「平井系図」などを参考に推定すれば以下のごこくになろうか。 泰氏の孫時綱は、守護六角氏の被官として、足利尊氏の天龍寺供養の随兵を務め、康安元年(1361)仁木義長追討では近江飯守岡の戦いに戦功を立てた。戦国期に出た頼氏は時綱から六代の後で、栗太郡中村を領し、足利義澄が永正五年(1508)、没落して近江に至るやこれを援け、以後も六角定頼・義賢に仕えて戦功があった。なかでも天文十一年(1542)、北勢の一揆が蟹坂城を囲んだとき山中某を助けて一揆の囲みをといたといわれる。 子の秀名は六角氏没落ののち織田信長に仕え、京都本国寺の戦い、姉川の戦い、槙島城攻めに従軍して江北の地を領したが、信長横死後流落の身となり、子の昌綱はのち讃岐生駒氏に仕えたという。 近江の平井氏には、戦国期佐々木六角氏の六家老の一家にあげられる平井氏がある。こちらは佐々木支流愛智氏系で、古代沙々貴系の佐々木行定の子愛智家行の次男家次が愛智郡平井に居住して平井権守を称したのに始まる。 平井定武は、六角定頼の奉行人となって、栗太郡平井に本拠をおいたと伝えられる。大永五年(1525)、浅井亮政との坂田郡長沢における戦いでは、左翼の八幡に三井氏らと守陣している。義賢の代には六角宿老の一人として重臣に列しており、加賀守の官途を許され、天文二十二年(1553)十一月には、浅井久政、義賢との和議に関する書状を出したり、石山本願寺へはしばしば使者として出張していることが、本願寺側の記録にみえる。 『六角氏式目』には、子の高明と並んで連署している。 ■参考略系図 |