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日根野氏
●丸に洲浜
●藤原氏/日根造後裔?  
 


 日根野氏の苗字の地は、和泉国日根郡の日根野荘といわれている。『寛政重修諸家譜』には、「織部正吉明のとき家絶ゆ。織部弘篤らが今の呈譜に、はじめ源氏たり。永盛が四代基遠にいたり、故ありて藤原氏となる。先祖もと和泉国日根郡中庄湊浦に住し、家号を日根と称し、のち日根野にあらたむという」とし、系図を掲載しているが、初期の系譜については不明な点が多い。おそらく、同地方に根を張る旧日根造(新羅帰化族)の後裔というのが妥当なようだ。
 康正三年(1457)、日根野永盛は淡輪入道道本をはじめ鳥取光忠・箱作道春・籾井道永等、日根郡内の国人たちと神前で契約、一致した行動をとり、仲間を裏切らないという誓約書を取り交わしたことが知られている。しかし、永盛の名はのちに豊臣大名となった日根野氏の系譜には見えない。
 日根野氏は戦国末期に至って美濃斎藤氏の重臣としてあらわれてくる。和泉の争乱のうちに一族の誰かが和泉国を離れて、美濃国へ流れていったのであろう。一方で美濃に移住せずに和泉に残った日根野氏もおり、美濃の日根野氏と和泉の日根野氏とは、交流を絶やさなかったようだ。天正四年(1576)、日根野弘就が和泉の日根野孫次郎に宛てた文書がいまも子孫の家に伝えられている。

美濃斎藤氏に仕える

 弘就の父は九郎左衛門尉といったが、実名は伝わっていない。日根野氏は、この九郎左衛門尉の代に和泉から美濃に移住したようだ。日根野氏は、室町時代には和泉の守護である細川氏と結び付き、有力国人として成長していった。しかし、天文十八年(1549)に細川氏が滅んだため、根来寺に圧迫され勢力を弱め、ついには和泉を去ることになったのではないだろうか。
 日根野氏の動向が史料的にはっきりしてくるのは弘就の代からで、弘就は、はじめ斎藤道三に仕えて活躍した。日根野弘就は斎藤氏の家中にあって「斎藤家六人衆」と呼ばれ、斎藤家の家老にまで出世した。美濃に移住して二代目にして家老に上ったことから推して、弘就はかなりの人物であったようだ。斎藤道三は嫡男義龍と戦って敗死したが、戦いに先立って義龍は弟二人を殺害したが、義龍の命で二人を殺害したのは弘就だと言われている。
 斎藤道三の死後、尾張の織田信長や近江の浅井長政が美濃への侵攻を企てたが、斎藤家の家中で彼らに通じた者も多かったようだ。しかし、弘就は斎藤家の家老として、斎藤家を守るため家中の不穏な勢力と対抗した。永禄六年(1563)、信長が美濃に攻め入ったが、日根野備中守は織田方の森・柴田勢と戦い織田軍を撃退している。しかし、斎藤氏はいよいよ凋落の色を深め、永禄七年には「西美濃三人衆」と称される安藤・氏家・稲葉氏らが織田信長に通じる様子を見せ、日根野備中守は近江浅井氏と結んでこれを妨げようとした。
 同じ永禄七年、竹中半兵衛重治が主従十八人で稲葉山城を陥れた。これは、斎藤龍興が半兵衛を嘲笑したことに対する報復とか、暗愚な主君の目を覚まさせようとして事を起こしたといわれるが、どうだろうか。この半兵衛に対して信長は美濃半国を与えるから、城を明け渡すよう求めてきた。しかし、半兵衛は自分の欲でやったことではないと、それを断わり、斎藤龍興に城を返して飄然と国外へ去った。かくして、斎藤氏はいよいよ万事窮し、ついに永禄十年、織田信長の攻撃によって稲葉山城は落ち、斎藤氏は没落した。弘就も美濃を去り、今川氏真のもとに行き、一時期、その家臣となっている。
 ところで、美濃における日根野氏の居城は、岐阜県本巣郡穂積町の本田と呼ばれる地区にあったと伝えられ、いまも日根野弘就が発給した文書が多く残されている。一方、『美濃国諸旧記』によれば美濃国厚見郡中島城であったという。

 
日根野形の冑
日根野備中守弘就が愛好した冑の形状をいう。冑の鉢を中央と左右打ち延べ、矧合せとした三枚張としたもので、高眉庇に真向を打ち止めにして腰巻の板をめぐらせた実戦向きの頭形の冑である。弘就が愛好した冑の形状を、とくに日根野形と称したといわれるが、実際のところ確証はないらしい。弘就は弟常陸介重之とともに美濃斎藤家を代表する豪の者だったが、その名を史上にとどめているのは、この当世冑の呼称に拠るところが大きいようだ。


近世へ続く

 今川氏が没落したのち、信長、さらに秀吉に仕え、天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いでは秀吉軍に属して戦い、そののち秀吉の勘気を蒙って浪人となったが、天正十八年再び秀吉に仕え、小田原の役では先鋒として活躍した。その功により、諏訪の地を与えられ豊臣大名の一員となったのである。
 弘就のあとを継いだ高吉は高弘ともみえ、天正十八年、父弘就が信濃国諏訪郡二万八千石を与えられ、弘就のあとを受けて高島城の城主となった。慶長五年(1600)の「関ヶ原の合戦」には東軍に属したが、合戦の前に高島城で没してしまい、あとは子の吉明が継いだ。戦後、下野壬生に移されたが、これは関ヶ原の合戦に戦功がなかったための左遷と思われる。
 吉明は大坂の陣で活躍をし、豊後府内城主となり、明暦二年七十歳の生涯を閉じた。しかし、嗣子なく養子もなかったため所領没収となった。ここに大名日根野氏は断絶したが、家名は弘就の次男吉時・三男弘正らがそれぞれ旗本となって後世に伝えた。 ・2004年09月22日


■参考略系図
・江戸時代に編纂された『寛政重修諸家系譜』の系図は、世代数があまりにも多すぎ、かなりの混乱がみられる。
 


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