彦部氏は天武天皇の第一皇子高市親王の後裔高階氏を本姓とする。高階氏の嫡流は高氏を名乗り、南北朝時代、足利尊氏の執事として活躍した高師泰・師直兄弟が出た。彦部氏は高氏の庶流であり、高氏とともに足利氏に根本被官として仕えた。 足利氏とともに歩む 応徳三年(1086)、高階河内守惟章は下野国に下向、佐久山館に居住した。これが高階氏が東国と関係をもったはじめで、男子のなかった惟章は八幡太郎義家と娘との間に生まれた惟頼を養子として家を譲った。ここに、高階氏には清和源氏嫡流の血が入り、のちに清和源氏と関係を深める端緒となった。 系図によれば、康和四年(1102)惟頼は陸奥国菊多郡の検断職を命ぜられ、いわきに下向した。以後、陸奥に住した高階氏は、惟長のとき足利義兼に仕え、その子惟重は奥州合戦、承久の乱に活躍した。惟重の流れが高階氏の嫡流で、のちに高氏を称した。一方、惟重の弟惟光の流れが彦部氏となった。すなわち、惟重の孫光朝が菊多郡彦部郷(一説に紫波郡彦部郷)に住して彦部を名字としたのである。 光朝の子光継は、鎌倉幕府の招きに応じ幕府昵近衆となり、以後、彦部氏は鎌倉に住した。そして、鎌倉時代末期には、高氏と同様に足利氏の被官となっていた。元弘の乱に際して、彦部光貞(光高・秀貞か)は足利高氏に従って上洛、以後、南北朝の争乱に際して足利氏に従って活躍した。光貞は九州で再起した尊氏が東上して、楠木正成、新田義貞と戦ったとき、湊川の戦いで討死した。 やがて、足利幕府が成立すると光貞の嫡男光春は、将軍の直臣に取り立てられ、のち奉公衆として重用された。南北朝合一をなしとげた足利義満に仕えた彦部忠春は、金閣寺造営の作事奉行を務め、鹿苑寺塔頭龍華院の開基となっっている。一方、光春の弟秀通の系は鎌倉府に仕えて、鎌倉府奉公衆として続いた。 幕府に出仕するようになった彦部氏は、三河額田郡に所領を有していたことが知られる。奥州から出た彦部氏は足利氏とともに行動するなかで、足利氏の所領が集中する三河に所領をえたようだ。そして、永和四年(1378)、忠春(光春)の打渡状が伝えられ、その後、文安・永享番帳の賢直、長享・明応番帳の国直らが三河との関係を持っていた。しかし、国直時代になると、幕府権力の衰退とともに三河との関係は次第に断絶していったようだ。 中世の終焉 ところで、彦部国直の後妻は近衛政家の女で、晴直・輝信(一説に晴直と輝信は父子ともいう)の兄弟をもうけた。一方、政家の室は将軍義政の女であったことから、彦部氏は近衛家を通じて足利将軍家とも姻戚関係となったのである。こうして、京彦部氏は、落日の様相を呈していたとはいえ摂関家・将軍家に連なる家格を得たのであった。 応仁の乱を契機として、世の中は戦国時代へと推移していった。下剋上の嵐のなかで幕府権力は大きく動揺、将軍義材は管領細川政元によって追放され流浪の身となった。その後、管領細川氏が内訌を繰り返し、幕府は全国政権としての体をなさなくなった。 将軍義輝時代になると申次衆に晴直・番衆に輝信がみえ、彦部氏が将軍側近として行動していたことが知られる。義輝は細川氏、三好氏らの下剋上により近江国朽木に流浪することが長かった。やがて、三好長慶と和睦した義輝は京に帰ったが、長慶の死後、永禄八年(1565)松永久秀・三好三人衆によって暗殺されてしまった。このとき、晴直・輝信は将軍義輝とともに奮戦、ついに両人とも討死した。ここに、彦部氏の嫡流は断絶となった。 ところで、永禄三年(1560) 近衛前嗣が越後の長尾景虎のもとに下向したとき、晴直の子信勝が同道した。同年、上杉憲政を奉じて景虎が関東に出陣すると、近衛前嗣も同陣し、彦部信勝も前嗣に従った。関東下向した近衛前嗣は桐生城に入ったが、のち、京へと帰って行った。信勝はそれに従わず関東に残る道を選び、以後、彦部氏は桐生広沢に土着した。関ヶ原の合戦に際しては屋敷から竹竿三百八十本と旗絹を献納、それによって桐生領五十四ヶ村は賦役御免になったという。 こうして、京に始まった彦部氏は奥州、京、そして関東へと流浪の歴史に幕を閉じたのであった。いま、彦部氏の住宅は貴重な中世史料として、国指定の重要文化財となっている。・2006年11月05日 ■参考略系図 ・岡崎市史/古代氏族系譜集成などから作成。 |