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松井氏
●竹輪に九枚笹
●清和源氏為義流  
 


 松井氏は、清和源氏の源為義の子維義が松井冠者を称したことに始まる。維義の子義宗は松井八郎を称し、義宗の後裔で山城国に住していた松井兵庫頭(允)宗次は足利尊氏に属し葉梨郷地頭となり、池田郷を与えられたという。子の助宗も尊氏に仕え、南北朝内乱期に今川範国の指揮に従って各地を転戦し香貫郷などを与えられた。
 以後、系図によれば助清─宗経─安広と続き、それぞれ鎌倉府の主関東公方に仕えたとみえる。安広の子保仲は足利持氏に仕え、子孫は遠江にして今川氏に仕えるようになったという。保仲の弟三郎寛之は足利成氏に仕え、その子の信濃守宗富は将軍足利義政に仕え、子孫は代々室町将軍家に仕えたという。
 もっとも、これらのことは松井氏系図にそのように記されているばかりで、室町期における松井氏の動静は定かではない。

細川家に仕える

 松井氏のなかで歴史に名をあらわすのは、足利義輝に仕えた佐渡守康之であろう。永禄八年(1565)、将軍足利義輝が松永久秀と三好三人衆の謀叛で殺害されると、主人を失った康之は、ともに足利幕府に仕えた関係から、細川藤孝(幽斎)と行動を共にするようになり、やがて家臣(家老)となった。以後、松井康之は細川藤孝(幽斎)に従って戦功をたて、藤孝の養女を妻として所領を給されたのである。
 康之は家老として細川家を支えるとともに、戦場では備頭として細川軍の先鋒を務め、怠るところがなかった。その働きぶりに感心した豊臣秀吉は、康之を石見半国十八万石の大名にとりたてたいと申し出たが、康之は細川家に仕えることを希望しこれを辞退したと伝えられている。
 慶長五年(1600)の「関ヶ原の戦い」に際して、細川家は徳川方に付き、国元にあった康之は九州の関ヶ原と呼ばれる石垣原合戦に出陣し、徳川方の勝利に貢献した。戦後、細川家は、豊前・豊後国で三十九万石余の大大名に躍進した。松井康之は豊後国木付城を預けられ、二万五千石という大名並の領地を与えられたのである。そして、慶長十六年(1611)家督を息子興長に譲り、翌年豊前小倉で病死した。享年六十三歳であった。
 康之のあとを継いだ興長は康之の二男であったが、兄興之が朝鮮出兵で戦死したため、松井家の後継ぎとなった。関ヶ原合戦では、国元を預かる康之に代わって細川忠興に従い、徳川方として出陣した。興長にとって、この出陣が初陣であった。その後、細川家から長岡姓を賜り、長岡佐渡を称した。宮本武蔵が佐々木小次郎と戦ったとき、細川家の家老として出てくる長岡佐渡は興長である。

八代城主となる

 寛永九年(1632)、加藤氏の改易のあとを上けて細川家は肥後熊本に国替になった。興長には改めて、玉名・合志郡の内に三万石が与えられた。同十四年(1637)「島原の乱」が起こると、藩主忠利の命により、派兵の手配、幕府や他藩との交渉に奔走し、翌年の「原城の戦い」では、自ら兵を率いて出陣して一揆制圧に活躍を示した。
 正保二年(1645)八代城主だった細川忠興(三斎)が亡くなると、藩主光尚の希望で翌年より、興長が八代城を預かることになった。以後、明治維新に至るまで松井氏は八代城主として続いた。江戸時代は一国一城と定められていたが、細川家は熊本城と八代城の二城を持っていた、これは、薩摩島津氏への押えとしての矢役割が八代城にあったためといわれる。興長には男子が無かったため、細川忠興の六男寄之を養子に迎え家督を譲った。・2004年12月17日

【松井家略系図】
松井康之―興長=寄之―直之―寿之―豊之―営之―徴之=督之―章之―盈之―敏之


■参考略系図
・八代市史資料編所収系図をベースに作成。
    


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