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広瀬氏
●木瓜
●出自不詳、藤原利仁流とも
 


 南北朝、室町、戦国時代に至るまでの飛騨国は、古川郷に「姉小路氏」、国府に「広瀬氏」、高原郷に「江馬氏」、高山に「三木氏」などの勢力が割拠し、互いに覇権を争った。飛騨国国府の地は古川盆地から高山盆地に至る所であり、広瀬氏はその要衝の地を領して山崎城・田中城、そして高堂城を築いて一定の勢力を築いたのであった。

広瀬氏の登場

 広瀬氏が歴史に登場してくるのは、応安五年(1372)の将軍足利義満の御教書においてであり、しかもいきなり飛騨の有力者として出てくる。一説に広瀬氏は藤原利仁の後裔といい、おそらく、鎌倉幕府の地頭またはその地頭代といった地位の家であったと思われるが、応安五年以前のことは一切分からない。
 康暦元年(1379)、足利義満は広瀬郷(当時は武安郷)の領主広瀬氏の所領を没収し、山城国醍醐理性院へ祈祷料所として寄進している。これは、広瀬氏が南朝方に味方したことに対する制裁であったようで、このころの広瀬氏の当主は常登入道であったと思われる。
 やがて、南北朝の内乱は北朝方の優勢となり、明徳三年(1392)将軍義満の提唱により南北朝の合一がなった。しかし、南北朝内乱の余塵は残り、応永十八年(1411)に「飛騨の変」が起った。これは、義満死後に将軍となった義持に対して、飛騨国司姉小路尹綱が後亀山法皇の密勅を奉じて挙兵したものである。もっとも、理由は後亀山法皇の密勅だけではなく、かねてから姉小路尹綱は一族である小島姉小路氏と所領問題で対立しており、幕府が小島姉小路氏に有利な計らいをしたことへの反抗という側面もあった。
 広瀬常登入道は姉小路尹綱に味方し、幕府軍を迎え撃ったのである。幕府軍は飛騨守護京極高光の弟高員を大将に、越前守護斯波氏の被官朝倉氏・甲斐氏、信濃の小笠原持長らの兵五千余を飛騨に攻め込ませた。対する姉小路・広瀬連合軍は五百、小島城に拠って奮戦したが衆寡敵せず、尹綱と広瀬常登は戦死して乱は終わった。この乱に際して、常登入道の子徳静入道は幕府軍に味方して、父の立て籠る小島城を攻めて、戦後、本領を安堵された。
 かくして広瀬氏は没落を逃れたものの、徳静、その子行宗の二代は幕府から白眼視さられ、所領である広瀬郷は醍醐理性院の院領にされたり、守護京極氏に略奪されようとしたりして、たえず幕府に本領安堵の嘆願をしている。そのような不安定な状態にありながらも、広瀬氏はよく本領を守り戦国時代に生き延びたのである。

戦国乱世を生きる

 応仁元年(1467)に起った「応仁の乱」をきっかけとして、日本全国は戦国争乱の時代となった。戦乱のなかで室町幕府の権勢にも衰えがみえはじめ、将軍を頂点とする室町体制は大きく動揺するようになり、守護大名も勢力を失墜させていった。それは、飛騨も例外ではなく、国司姉小路氏、守護京極氏らの力が衰え、広瀬氏は南飛の三木氏、北飛の江馬氏らと並んで中飛に勢力を築いていった。
 天文年間(1532〜55)、広瀬利治は瓜巣に新城を築いて本拠とした。その新城こそ高堂城で、戦国広瀬氏の本拠になった。しかし、高堂城は不便なため詰城とし、近くに広瀬城を築き屋敷城としていた。広瀬城は、飛騨において高山城・松倉城に次ぐ大規模な山城として知られている。
 利治の子宗域(城とも)の代になると、飛騨は戦国時代の最中となり、宗域は三木氏と結んで天神山城や畑佐・中山・小鷹利城などを攻略した。ところが、飛騨の統一を目指す三木(姉小路)自綱との間に不和が生じ、宗域は甲斐武田氏に通じたといわれる。しかし、天正三年(1575)長篠合戦に敗れた武田勝頼は勢力を失墜し、天正十年、織田信長の甲斐侵攻で武田氏は滅亡した。さらに、同年六月、織田信長も本能寺で横死したことで、にわかに時代は急展開を見せた。
 北飛騨の雄江馬氏は飛騨統一の好機とみて、三木氏に決戦を挑んだ。対する三木氏は広瀬宗域、小島姉小路氏と連合して江馬軍を迎え撃ち、江馬輝盛を討ち取る勝利を得た。かくして、三木自綱は飛騨最大の勢力となり、翌年、宗域を松倉城に招いて謀殺、広瀬氏の城を奪い取ったのである。広瀬宗域にしてみれば、痛恨の油断であった。このとき、宗域の嫡子宗直は越前大野城主金森氏のもとに逃れた。
 天正十三年、豊臣秀吉は姉小路自綱討伐の軍を起し、大野城主金森長近が飛騨に侵攻した。この陣に宗直も加わり、金森勢を先導して活躍、高堂城を守る三木勢を降したのである。しかし、高堂城は広瀬氏に返されることはなくそのまま廃城となった。
 飛騨の領主となった長近は飛騨国人衆を圧迫しはじめたため、不満を抱いた広瀬宗直は江馬時政らとともに金森氏に対して一揆を起した。しかし、長近の養子金森可重に討伐され、江馬時政は討死し、宗直は信濃から近江へと落ち、のち井伊氏に仕えたと伝えられている。・2005年6月17日

参考資料:古川町史・飛騨の城・図説飛騨の歴史・日本城郭体系 ほか】


■広瀬氏の家紋考察

・『図説・飛騨の歴史』に紹介されている広瀬氏の紋。高堂城があった国府町にある瓜巣公民館に保存されているもので、図柄を見る限り「細桔梗紋」のようにも「五つ銀杏紋」のようにも見えるが、「瓜紋」と称されている。瓜紋ということであれば「五つ木瓜紋」と思われ、広瀬氏の家紋として掲載した紋はこれに拠った。

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■参考略系図
・『飛騨の城』に紹介されている系図。

              広瀬              次郎 左近将監 山城守 兵庫頭
藤原利仁──…──常登入道──徳静入道──行宗──利治──宗城──宗直





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