ヘッダイメージ



閉伊氏
四つ目結
(清和源氏為朝流)


 閉伊氏は、保元の乱(1156年)において大活躍を示した鎮西八郎源為朝の子孫と伝えられている。すなわち、保元の乱に敗れた為朝は伊豆大島に流刑の身となり、大島において男子を生した。島冠者為頼で、閉伊氏はこの為頼を始祖としているというのである。
 『閉伊郡之次第』によれば、為頼は鎌倉幕府を開いた源頼朝に仕えて、佐々木四郎高綱の猶子となり、佐々木十郎行光と名を改めた。閉伊氏一族が「四つ目結」を家紋に用いる由縁でもある。そして、奥州合戦後に頼朝から奥州閉伊郡の地頭職を給わり、建久元年(1190)下向し田鎖城に住んだということになっている。また『岩手県史』には、頼朝に仕えて閉伊郡一半の地頭職に補されたとある。そして弘安八年(1285)、閉伊一戸主に関する北条貞時などの古文書が伝えられていることから、鎌倉時代中ごろには相当の勢力を築き上げていたものと思われる。
 閉伊氏の祖頼基が閉伊に入部した建久元年は「大内兼任の乱」後であり、頼朝は閉伊氏を現在の宮古湾に注ぐ閉伊川流域を所管させたようで、閉伊氏は千徳城・田鎖城を拠点に領内の統治にあたったようだ。

閉伊氏の動向

 閉伊氏の鎌倉時代より南北朝初期までの動向は、古文書などから知られる。たとえば、鎌倉時代の中ごろを過ぎた正応三年(1290)、閉伊光員が亡くなった。そして、光員の遺領を閉伊光頼と閉伊員連とで争ったことが元亨四年(1324)『田鎖家文書』から知られる。争いの裁定は鎌倉においてなされ、閉伊光頼には閉伊光員の遺領 のうちその譲状に随って土地相続が許され、 閉伊員連にも一定の知行がゆるされた。 とはいえ、員連には実書を謀書と言った咎として寺社の修理を命じられたことが記されている。
 ついで、 建武の新政が成った建武元年(1334)、閉伊親光の申状がある。このとき、親光の父にあたる閉伊光頼は出家しており、親光は北畠顕家の在勤する多賀の国府へ參府して、光頼からの領地の移譲を認めて安堵して欲しいと願い出たのである。
 南北朝の内乱時代の閉伊氏は北畠顕家に従って南朝方として行動していたようだが、延元三年(暦応元年=1338)北畠顕家が戦死すると、奥州の南朝方は振るわなくなり、閉伊氏に対して武家方の石塔義房が出陣の催促をしている。南朝方の衰退とともに閉伊氏は北朝方に転じたのである。そして、この石塔義房の書状は南部氏に伝えられている。このことは、閉伊氏が南部氏に滅ぼされたことを示している。ちなみに『南部史要』によれば、正平十年(1355)閉伊光親(親光か)は南部政行と戦ったとあり、閉伊氏は南部軍に敗れ没落の運命となったようだ。
 一方、さきの『閉伊郡之次第』には、「応永から永享のころ(1394〜1440)、宗家大いに衰え、南部守行が閉伊を征伐したとき、一族はこれに従い、宗家の命を奉じず、閉伊一族はそれぞれ一家をなして、宗家も国人の列に落ちた」と記されている。
 閉伊氏が南北朝の争乱から室町時代にかけて次第に勢力を失い、一介の国人領主に衰退したことが知られるのである。そして、閉伊氏嫡流は田鎖氏を称して戦国時代に至ったという。もっとも、閉伊氏の戦国時代にいたるまでの歴代当主を記した系譜・菩提所の記録も残されているが、それらの記述はそのままに信じられないものである。

閉伊氏一族の末裔

 閉伊氏一族は閉伊川沿岸に広がり閉伊源氏とも称され、その本宗はさきに記したように田鎖氏とされる。そして閉伊氏の庶流としては刈屋・和井内・茂市・長澤・花輪・高濱・箱石・ 根市・中村・赤前・重茂・大澤・蟇目・田代・山崎・ 荒川・近内・小山田・江刈内等の諸氏があり、それぞれ閉伊郡内の地名を名字としている。
 『奥南落穂集』には、戦国末期の天正年中(1573〜91)に田鎖遠江守、その子十郎左衛門がいたと記されている。また『聞老遺事』の南部信時の条に「田鎖党を打って平けたまう」などの所伝がある。さらに南部氏の一門である一戸信濃守が、閉伊郡千徳城に住したとの説もあり、田鎖氏をはじめ閉伊氏一族は南部氏の被官に組み込まれていったものと思われる。
 田鎖系図には、天正十八年(1590)奥州仕置によって田鎖遠江守・十郎左衛門父子は三戸に至って、南部信直に仕えたとある。ちなみに、江戸時代の南部藩士を見ると、閉伊氏一族と思われる名字が散見している。閉伊氏一族は中世を生き抜き、南部氏などに仕えて近世に至ったのである。

【参考資料・岩手県史 など】  


■参考略系図
・『岩手県史』の記事から作成。内容的には世代数の多さが目立ち、疑問の残るものである。また、閉伊氏一族という田鎖氏、花輪氏の系図は世代数が少ないようだ。このように、閉伊氏と一族の系図はそのままには受け取れないものが流布されているようだ。
  


バック 戦国大名探究 出自事典 地方別武将家 大名一覧