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吐山氏
不 詳
(藤原氏後裔?)


 大和国の国衆で、その出自は『大和志料』の「窪氏家記」には「吐山は長谷川氏にて秀字を用ゆ」とみえ、「和衆国民風土記」には「吐山南忠助 高階姓にて長谷川氏也」とあり、これらによると吐山氏は長谷川氏出自と考えられるが詳らかではない。また『大乗院寺社雑事記』の文明七年(1475)の条には「吐山藤原対馬守宗秀、吐山峯加賀守藤原家生」などと吐山氏の名がみえ、藤原姓となっている。
 大和の東山内在地武士は興福寺衆徒・国民となり、来迎寺檀家.水分社氏人として横の関係を二重にもつ形で党的結合、一揆の体制を興福寺大乗院二階堂院主のもとで確保していたことが知られている。そして、東山内衆のなかから多田氏と吐山氏の二派が台頭してくる。すなわち、多田順実を中心に天神講という結衆が南北朝時代に結成され、同講に参加しなかったものが吐山氏を中心に結集していったのである。

戦乱を生きる

 文明十七年(1485)頃より、河内守護の畠山政長と東山内筒井党、畠山義就と東山内越智党が結ばれる形で、東山内衆が二派にわかれ山内動乱の動きを見せるようになったが、吐山氏が優勢であったと思われる。国中では越智党が筒井党を圧倒する状況で、吐山氏は越智氏と関係を深め、延徳元年(1489)吐山藤満は白石庄の代官職を請け負った。
 延徳三年六月、吐山内衆の峯源四郎以下の一族が、藤満を討ちとる計画をたて、それを知った藤満は城を捨て、源四郎らが吐山城に入った。その後、吐山庄地下人らの協力で藤満は吐山城に戻ることができた。しかし、翌年峯一族は吐山城に夜討ちをしかけて攻防があった。この吐山一族の内紛のなかで、越智・古市勢が藤満方として峯方の小山戸氏の館を攻めると、小山戸氏は峯方として吐山本城攻略のため在陣していた筒井・福住・十市氏らの軍勢とともに多田方に没落していった。
 このように吐山氏の内紛の背後には、筒井・越智両党とそれと結ぶ東山内衆の両派が関係していた。つまり吐山城を軸として大和国衆が抗争していたのである。さらにいえば、長享年間(1487〜8)になると、筒井党であった吐山氏に越智氏の支配がおよび、吐山氏内には筒井派と越智派ができて派閥抗争になったとも考えられる。そして、越智派となったのが藤満であったことはいうまでもない。
 『大乗院寺社雑事記』の明応七年八月条には、「昨日吐山責落之了」とある。これは吐山城が落ちたことであり、時期としては筒井党の台頭、越智党の没落期であり、越智方の藤満が守っていた吐山城は、筒井党によって攻め落とされたものであろう。そして、吐山城には筒井党の一族が入ったようである。

吐山氏の終焉

 その後、永禄二年になると、松永久秀が大和侵攻を強行する。こうしたなかで吐山氏は松永方となったようである。元亀二年(1571)以降、松永氏が没落しはじめると松永方として、ともに郡山の付城を守っていた簣川氏を討ちとるかたちで松永氏を裏切っている。
 その後の吐山氏の動きについては詳らかではないが、『多聞院日記』天正十三年(1585)五月条に「宝寿院弟子寛禅房風気ニテ死、吐山之次郎子也」とある。この年、筒井定次は伊賀に移され、羽柴秀長が郡山城に入城し大和・和泉・伊勢三ケ国の、いわゆる百万石の大名として大和に入部している。しかし、この時期以後の吐山氏の動向は明かにはできないのである。

参考資料:奈良県史のうち大和武士】



■参考略系図  


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