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八幡氏
●揚羽蝶(三つ巴)
●桓武平氏
 


 八幡氏は陸奥国宮城郡の領主で、その先祖は代々陸奥介を称していたといい、室町時代に至って八幡介を称するようになり八幡氏となったといわれる。陸奥介は陸奥国の在庁官人で、系図によれば平姓である。『今昔物語』に陸奥介は「大夫の介とて事の外に勢徳有者」と記され、「国の介」のように平安時代から陸奥国宮城郡に土着した武士であったことは疑いない。
 陸奥介は平安時代から引き続いて鎌倉時代にも陸奥介を称し、鎌倉幕府から宮城郡八幡庄内を安堵され、在庁官人として鎌倉時代に生き残ったひとりであった。そして『結城小峰文書』によれば、陸奥介平景衡は鎌倉幕府から地頭織を給せられたことが知られる。他方、『余目旧記』にも「八幡庄三箇村の事は、文治より頼朝の御判にて給置、八幡介と号す」とあり、奥州合戦後、陸奥介が鎌倉御家人になったことを示している。

二流の八幡氏

 八幡氏の出自について『平姓八幡氏系図』によれば、桓武平氏の系統で伊勢次郎頼景が嘉禄元年(1225)下野守となり下野国梁田郷保田庄に住した。頼景の長男は保田氏を称し、次男の景家が建保元年(1217)陸奥国宮城郡内に八幡・蒲生・などの地を賜って、嘉禎元年(1235)宮城郡八幡村に移住し、八幡介を称したとある。すなわち、保田景家が八幡氏の祖だというのである。
 しかし、八幡庄には陸奥介景衡の系が存在しており、保田景家が八幡庄に移住してきたことは奇異な感じを抱かせるものといえよう。おそらく八幡庄には陸奥介系と保田系の領主が併存し、平安期以来の領主であった陸奥介系は南北朝期ころには衰退し、景家の系が栄えて室町時代以降の、いわゆる「八幡介」となったものであろう。そのことを裏付けるように、鎌倉時代の古文書に見える八幡氏はすべて「陸奥介」であり、南北朝期以降の八幡氏はすべて「八幡介」と記されている。
 いずれにしろ陸奥介は平安後期以来の宮城郡の豪族で、陸奥介が領した八幡庄は庄内に鎮座する末松山八幡宮の庄園であったが、陸奥介が八幡宮の大壇那としてこれを支配した。末松山八幡宮に現存している永仁七年(1299)銘の古鐘には、陸奥介平景綱の名が残されている。この景綱はさきの景衡の孫にあたる人物である。  やがて、在庁官人の流れを汲む八幡介は、婚姻などを通じて他氏へ所領を流出させたこともあって、次第に勢力を衰退させていったようだ。その結果、陸奥介系は没落して八幡介系がそれにとって代わったのであろう。

中世の戦乱と八幡氏

 八幡氏の歴代の事歴を『平姓八幡氏系図』から拾うと、鎌倉時代末期から南北朝期にかけての当主は景綱の子の景経で、建武年中(1334〜)には鎮守府将軍北畠顕家に従って上洛し、のちに足利尊氏に謁して旧領を安堵されたことが記されている。景経の孫の景信は奥州探題大崎氏に従って、宇都宮氏広の乱に活躍し、関東公方足利満兼から黒川・遠田両郡のうちに恩賞の地を賜っている。八幡氏が南北朝の内乱期を生き抜いて、室町体制下に生き残ったことが知られるのである。
 景信の子景弘は鎌倉公方足利持氏に近侍したようだが、男子に恵まれず、桃生郡深谷荘小野邑主長江景泰の子景盛を養子に迎えている。『平姓八幡氏系図』は江戸時代後期にまとめられたものとされるが、そのもとになった史料は八幡氏に代々伝えられた記録などであったと思われ、中世における諸氏の動向が図らず含まれた興味深い史料となっている。
 景時の代に京で「応仁の乱(1467)」が勃発し、時代は戦国の様相を濃くしていった。このころ、八幡氏は留守氏に属するようになっていったようで、弟の盛忠は留守家の援兵として出陣し戦死している。景時のあと景行、景光、景業と続き、景業が早世したため、景廉がわずか五歳で家督を継承した。そして、幼い景廉に代わって叔父の下間景継が家政にあたったのである。
 やがて、成長した景廉が八幡氏の家督を継承し、弟の業継は叔父下間景継の養子となってその跡を継いだ。ところが、景廉、業継兄弟の仲はきわめて悪く、ことごとく対立してやまなかった。その背景には、下間景継が本家乗っ取りを企てたことがあったようで、八幡氏の家臣団のなかには、下間景継に迎合して景廉を廃嫡し業継に家督を継がせようという動きもでてきた。この動きを察した景廉は、主君の留守政景に事態の収拾を訴え出た。これを聞いた政景は激怒し、天正六年(1578)、下間館を攻撃して八幡氏の家督争いに終止符を打ったのである。以後、八幡氏は安泰となり、景廉は政景に忠節を尽くすようになった。
 一方、おさまらないのは弟の下間業継であった。業継は八幡氏家中はもとより留守領内にも身をおくことができず、岩沼の泉田氏を頼った。泉田重光の妻は兄弟の姉にあたり、重光は業継を快く受け入れて庇護した。しかし、このことががのちに、ひとつの事件につながるのであった。

近世へ生き残る

 さて、天正十六年(1588)伊達政宗は大崎氏を討つため、留守政景と泉田重光を大将に命じて大崎領に兵を進めた。大崎攻めに先立つ軍議において留守政景と泉田重光との意見が対立したが、その原因として政景の岳父が大崎方に転じた黒川月舟斎であったことと、八幡兄弟のことがあったといわれている。政景と重光の対立は一触即発の事態となったが、どうにか収拾され伊達軍は泉田重光を先陣に、留守政景が後陣となって大崎領に攻め入った。しかし、結果は大崎勢の健闘もあって伊達方の完敗に終わった。
 その後、紆余曲折を経て戦国時代は終息し、伊達氏は豊臣大名の一員に組み込まれ、留守氏も伊達氏の重臣となった。そして、八幡景継は留守氏の家臣となり、子孫は留守氏の家臣として続いた。
 ところで、八幡氏の家紋は系図の冒頭に「揚羽蝶」と記されているが、景廉の子景憲のとき「三頭右巴」を授かったとみえている。巴紋は八幡宮の神紋として知られ、八幡氏の家紋としてふさわしいものといえよう。・2005年3月17日


■参考略系図
   


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