浜名氏は、源平時代に以仁王を奉じて平家追討の兵を挙げ、敗れて討死した源三位頼政の子孫といわれる。頼政は「鵺退治」で有名な人物で、鵺を退治した恩賞として、遠江国堀之内六ヶ村を賜った。恩賞地は、鵺を退治して賜ったことから「鵺代」とも称された。その後、頼政の子孫の一人が現地に下向して、浜名氏を称するようになったとされる。一説に、平安時代鵺代を本拠として興起した猪鼻氏の系統を引くともいわれる。 頼政流の伝承によれば、浜名氏のはじめは頼政七代(四代とも)の孫頼氏といい、その子が鵺代二郎清政で、のちに左近大夫を称した。清政の代は南北朝の争乱期にあたり、清政は足利尊氏に加担したことで、一時、遠江を逃れるという事態となった。 その後、延元四年(1339)に遠江に帰還して千頭峯城の攻撃に参加し、千頭峯城が陥落し、さらに三嶽城、大平城などの南朝方の諸城が落ちたことで、従来の諸領を回復するとともに、勢力を大きく拡げた。そして、正平三年(1348)都筑の西方猪鼻湖岸の要害の地に佐久城を築き、鵺代より移り浜名氏の本拠とした。以後、現在の三ヶ日地方のほとんどを領し、一族を大谷・駒場・都筑・三ヶ日などに配して、湖北における大勢力となった。 浜名氏の登場 清政のあとは詮政が継ぎ、天授元年(1375)三月、将軍足利義満の石清水八幡宮参拝に供奉し、弘和元年(1381)正月の義満の白節会出仕にも供奉している。詮政が義満の近臣の一人として、厚い信頼を受けていたことがうかがわれる。詮政のあとは満政が継ぎ、そのあとは、持政が継いだ。いずれも将軍から一字を賜ったものと思われ、浜名氏が代々の足利将軍から信頼を寄せられていたことが知られる。 かくして、代々の浜名氏は足利幕府の奉公衆となり、京都にあって将軍の側近として活躍、また歴代歌人としても名声を得るなど栄華を誇った。 長享元年(1487)、将軍足利義尚が近江の六角高頼を親征したとき、政明が参陣し五番に着到している。その後、永正三年(1506)に今川氏親の客将伊勢長氏に属して、三河に入り松平長親の軍と戦っている。大永二年(1522)には、連歌師柴屋宗長の訪問を受け、佐久城において連歌の会を催している。 他方、大福寺に田地等を寄進し、鵺代の八王子社に神田を寄進、さらに金剛寺へな末代まで浜名氏一門の寺院たることを確約する書状を入れるなど、領内の社寺にもあつい保護を加えている。政明は浜名氏歴代のなかで、もっとも多くの事蹟が伝えられている人物である。 浜名氏は室町幕府の権勢が衰退していくとともに、遠江守護今川氏との関係を深めていった。そして、正国は今川義元に属して、永禄三年(1560)、義元の上洛軍に加わり、桶狭間において義元が織田信長の奇襲によって討死すると、軍を徹して帰国したと伝えられている。 今川氏とともに没落 義元のあとを継いだ氏真は、領国を治める器量に乏しく、次第に家臣団から信頼を失っていった。松平元康は三河において自立し、甲斐の武田信玄は駿河に食指を伸ばしてきた。桶狭間から帰国した正国は間もなく死去し、そのあとは頼広が継いだ。 頼広の妻は今川氏に最期まで誠忠を尽した掛川城主の朝比奈泰能の女であり、浜松城主飯尾乗連は甥に当たっていたといわれ、今川氏とは強い因縁で結ばれていた。それゆえに、今川氏を見限ることのできない立場にあった。 永禄十一年(1568)、三河の徳川家康が遠江進攻を企図し、浜名氏に徳川方へ転向することを勧めてきたが、佐久城によって抵抗姿勢を示した。ところが、家康は三ヶ日を通過せず、井伊谷を通過して浜松に侵攻し、浜松を拠点として遠江攻略を進めていった。家康が迂回して浜松に侵入したことを知った頼広は、身の危険を感じ、家臣数人を連れて甲斐武田氏を頼って落ちていった。 家康は佐久城に兵を進めたが、主将を失った佐久城では、一族の長老大矢政頼が大将となって徳川軍を迎え撃とうとした。しかし、翌年になって徳川軍からの降伏勧告を受け入れて、佐久城を開き城から退去していった。ここに、南北朝以来、三ヶ日地方を支配してきた浜名氏は没落したのである。 その後、浜名氏代々が居城とした佐久城は、家康の武将本多百助信俊に与えられ、子信時に継がれた。天正十一年(1583)、本多氏は、東北方の野路城を構築して移ったため佐久城は廃城となった。 ところで、加賀藩士に浜名氏があり、家紋に「丸に抱き沢瀉」を使用したという。佐久城浜名氏の後裔であろうか? お奨めサイト…・佐久城跡 ■参考略系図 |