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菅谷氏
亀甲の内に三つ巴
(村上源氏赤松氏後裔/
紀姓信太氏一族)


 戦国時代、常陸小田城を拠点に佐竹氏らと対抗した小田氏に仕え、小田成治の頃から頭角を現した菅谷氏は村上源氏赤松氏の裔という。
 『土浦史備考』によれば、後醍醐天皇の討幕運動に功のあった播磨の赤松円心は、延元元年(1336)足利尊氏の謀叛に与して後醍醐天皇に背いた。しかし、子の氏範は父と袂を分かち南朝方に節を通した。結果、氏範は敗れて滅亡したが、その弟で兄氏範の養子となっていた範元は故国播磨を離れて、禅鉄を名乗って回国の僧となり、東国の南朝方である小田氏を頼って部下とともにやってきた。翌延元二年、小田治久の家臣で土浦城主の信太宗房は菅谷原で主君の命を受けて狩りをしていたが、治久に注進することがあり硯を探したが無かった。そこに通りかかったのが禅鉄で、宗房は禅鉄を呼んで硯を持っているかと尋ねた。これを聞いた禅鉄は笈から硯を取り出したが、水がないので桔梗の花を集めてそれを揉んで硯水とした。これに感心した宗房は禅鉄に由緒を尋ねると赤松の末裔と申し出たので土浦城に連れ帰り、還俗させたうえで主君治久にことの次第を伝えた。これをきっかけとして禅鉄は小田氏に仕えるようになったという。禅鉄は菅谷原をもって菅谷と号し桔梗をもって自らの家紋として、手野郷に三百貫の地をもらった。とはいえ、この話は伝説の域を出ないものといえよう。しかし、戦国時代の小田氏家中に赤松姓の武士もいることから、そのような話があったのかも知れない。
 菅谷氏の所在が明確になってくるのは、宍倉城主になったころからである。永享七年(1435)の時点では、宍倉は野田遠江守が領しており、宝徳三年(1451)小田持家によって野田氏が宍倉を追われたあと、菅谷氏が宍倉に移ったものと考えられ、それは、文明四年(1472)のことと思われる。

歴史への登場

 菅谷氏の史料上の初見は、菅谷隠岐守の娘が小田成治の側室となったときである。小田政治が小田氏の当主であった明応五年〜天文十七年(1496〜1548)に陣代をつとめたのが宍倉城主の菅谷隠岐守晴範で、この晴範が初めて宍倉城を築き、以後、菅谷氏代々が居城とした。
 永正十三年(1516)、政治は菅谷晴範の二男勝貞に命じて土浦城を攻略させ、信田(信太)家範の二男範貞を土浦城主とした。ところが、範貞には子が無かったため勝貞を養子としていた。このため、のちに菅谷氏と信太氏の系図が混乱することになり、菅谷氏を信太氏の後裔とする(寛政重修諸家譜)因となった。ちなみに、信太氏は紀氏流であり、菅谷氏は先述のように播磨赤松氏の後裔で村上源氏の流れである。
 さて、永正十三年古河公方成氏が死に、あとを継いだ政氏とその子の高基が争い、高基からの要請を受けた小田政治は信太勝貞に兵を与えて出陣させ感状を与えられた。その後も、勝貞は政治の命を受けて上総国などで戦い、しばしば軍功を上げている。同年、小田氏は佐竹氏と戦ったが、このときも勝貞が兵を率いて出陣した。
 永正十六年八月、勝貞は上総椎津において戦功を上げ、古河公方高基から感状を与えられた。翌年にも下総における戦で数々の戦功を上げ、次第に自負心を深くしついに信太姓を改めて実家の姓である菅谷氏を名乗った。この菅谷姓への復帰は、信太宗家の範宗との間に不和を招く結果ともなった。とはいえ、範貞の没後勝貞がそのあとを継ぎ土浦城主となった。『小田事跡』には、信太摂津守勝貞となっているが、当然、菅谷勝貞であることはいうまでもない。

戦乱のなかの菅谷氏

 天文十四年(1545)、関東管領上杉憲政は扇谷上杉氏、古河公方晴氏らとともに、後北条方の北条綱成が守る河越城を攻撃した。この合戦に菅谷貞次が援軍として連合軍に参加し、貞次は氏康に和睦の提案を行い受けいれられたが、数を誇る上杉憲政らはそれを黙殺した。結果は、北条氏康の奇襲を受けた連合軍が敗北し、扇谷朝定は戦死し山内憲政は平井城に逃走、公方晴氏は古河に逃れ、貞次も戦場から逃走した。北条氏康の大勝利であり、以後の関東の政治地図を塗り替える合戦となった。その後、小田政治が没し氏治が家督を継いだ。土浦城には、信太範宗の三男で前沢家に養子に入っていた重成が信太に復して入った。菅谷勝貞と政貞の父子は土浦城を出て藤沢城に移り、宍倉城は一族の菅谷隠岐守がそのまま在城した。
 永禄元年(1558)、古河公方の援軍として政貞が出陣したことが知られる。このころ、後北条氏は古河公方と姻戚関係を結び、関東における地位をさらに高めていた。小田氏は佐竹氏との抗争から、後北条氏に属していた。同年、佐竹義昭は上杉謙信と結んで小田城を攻撃した。政貞らは防戦に努めたが、結局小田城は落ち、氏治を藤沢城に迎えた。翌年、坂戸城主の信太頼範が小田城を奪回し、氏治を小田城に復帰させた。その後、菅谷政貞は氏治を奉じて山王堂で太田三楽と戦ったが、嫡子政頼を失っている。
 政貞は氏治の股肱の臣として、小田氏の勢力が衰退するなか、柿岡・岡見ら小田一門、信太・田土部氏ら信太一門と並ぶ菅谷一門の惣領的立場に立ち不運の主君をよく補佐した。ことに上杉謙信との折衝をはじめ、外交に手腕を発揮し、多くの武将たちから名を知られる存在となった。
 永禄六年、氏治は大掾慶幹と三村で戦い、菅谷勝貞・政貞父子も出陣して戦功をあげた。同年五月、土浦城主の信太重成が戦死したことで、土浦城主は菅谷氏が兼務するところとなった。木田余城には政貞の二男範政が入った。
 永禄十二年(1569)十一月、氏治が三千の兵を率いて手這坂に出陣したが、佐竹方の太田・真壁氏らによって小田城を攻められ、敗れた氏治は逃れて土浦城に入った。しかし、太田氏らの追撃を受け、藤沢城に逃れて籠城し、どうにか佐竹勢を撃退することに成功した。以後も政貞は氏治を援けたが、小田氏は群小勢力の一つに過ぎない存在に落ちぶれた。
 ところで、手這坂の合戦の翌年、信太宗家の治房(範勝)が土浦城で自害した。範勝は手這坂の敗戦を批判したか、佐竹寄りの姿勢を示すかして責任をとらされたものと考えれる。しかし、『天庵記』によれば、小田城落城後、藤沢城にいた氏治は要害が悪いため土浦城に移りたいが、土浦城には手這坂の合戦に異論を唱えた信太範宗がおり、菅谷氏に土浦城を攻め取れと命じた。とはいえ、正面からでは難しいので、一計を案じて範宗を誘い出しこれを殺害した、と記している。のちに、菅谷氏が信太氏の怨霊を鎮めるために信田八幡を立てていることから、範宗は菅谷氏の計略によって殺害されたとする説が信憑性を帯びてくる。

小田氏の没落と、菅谷氏のその後

 天正十一年(1583)二月、氏治は孫の金寿丸を人質として差し出し、佐竹氏の軍門に降った。この後の氏治は佐竹方として動いたり、小田城奪還を狙ったりしたが、天正十八年の小田原北条氏の滅亡にともない、徳川家康の関東入部、豊臣秀吉の統一政権下での施策によって、戦国大名小田氏は終焉を迎えたのである。小田氏の血脈は残ったが、ふたたび世に出ることはなかった。
 小田氏が没落したあと、麾下の武将は分散し独自の活動をはじめた。土浦の菅谷氏、上条の江戸崎氏、牛久の岡見氏、それに小田氏と協力関係にあった江戸崎・竜ヶ崎の両土岐氏らであった。しかし、その活動を伝える史料は極めて少ない。
 ちなみに戦記物や伝承によれば、菅谷政貞の跡をついだ範政は佐竹軍のために失った土浦城を、岡見・土岐氏らの支援を得て奪還した。そして、土浦城を根城にして、小田氏治とともに佐竹・梶原と戦い、岡見氏と協力して多賀谷氏の進攻を防ぎ、また土岐氏を援けて行方・下総方面まで転戦した。小田氏が佐竹氏に屈してのちも、独力で土浦城を守っていたが、小田原落城後、土浦城を出て野に隠れた。一方、政貞は文禄五年(1592)七十五歳で没するまで、氏治と行動を共にしたと伝える。
 のちに浅野長政の推挙を受けて徳川幕府に仕官した。菅谷氏の小田氏に尽くしたことが徳川家康の厚遇につながったが、政貞の外交手腕と武将としての名声が大きかっことも見逃せない。以後、菅谷氏は徳川家旗本として続いた。

参考資料:常陸国信太郡に足跡を残した人達/土浦市史 など】


■参考略系図
    


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