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金子氏
蜻 蛉
(桓武平氏村山党)


 武蔵七党の一つ村山党の一族で、武蔵押領使村岡忠頼の四代の孫頼任が、武蔵の村山郷に居を構え、村山氏を名乗った。その孫家範は入間郡金子郷に居住し、金子六郎を称して金子氏の祖となった。
 保元の乱では、金子十郎家忠が源義朝に従い、為朝方の高間氏を討ち、平治の乱には、源義平のもとで平重盛を攻めた。その後、源平合戦には、源義経のもとで一の谷などで数々の軍功をたて、本領の金子郷のほか、播磨国斑鳩荘などの地頭職になっている。家忠は、頼朝・頼家・実朝の三代に仕え、その子家高も頼朝に仕え、和田の乱では和田氏に与して北条方に殺された。
 しかし、一族には鎌倉幕府御家人として諸国に所領を得た者もあり、南北朝期以降も本領である金子郷を伝領し、武蔵国人として戦国時代に至った。

南北朝期から室町時代の金子氏

 延元四年(1339)二月、金子越中六郎左衛門入道は、鎌倉公方足利基氏から、南朝方征伐のために将軍義詮が発向しているから、庶子を率いて参洛し、忠節を尽くすように命じられている。当時、義詮は南朝方の楠木・和田両氏と河内国で戦っており、基氏は畠山国清を総大将として関東の軍勢を上洛させた。金子氏もその催促を受けたものである。ちなみに、越中六郎左衛門入道は家譜によって、忠重の子忠親と推定できる。
 応安元年(1368)二月、武州平一揆が起こり一揆方は河越館に立て篭って、鎌倉公方氏満に叛した。金子氏は同じ武蔵村山党の一族である河越氏に率いられた武州平一揆に属していた。そして、永禄二年(1382)に起こった下野国小山義政父子の乱で、忠親の子家祐は、軍忠をあらわしそのことを申告している。武州平一揆の金子家祐が提出した軍忠状に証判を加えたのは将軍義満となっている。これは、このとき出された他の軍忠状と同様に、小山の乱で討手の両大将をつとめた上杉朝宗・木戸法季のいずれかが証判を加えたものと推定される。
 家祐は至徳二年(1385)に死去し、その子家重は応永十年に亡くなっており、その後、室町時代における金子氏の事蹟をうかがうことができない。とはいえ、高正寺所蔵家譜に、室町期の金子氏の事蹟をうかがえる注記が若干記されている。
 家兼は、観応・文和年間、将軍尊氏に従って武蔵野で新田義興と戦い、朝兼は応永二十三年(1416)十月、禅秀の乱に際し上杉憲基に従って、鎌倉化粧坂の合戦で軍功をあげたとある。『鎌倉大草紙』にも金子氏が、憲基に従ったとある。憲基は禅秀の辞去ののち関東管領となり、武蔵国守護職を兼帯した。この合戦に憲基に属した長尾満景は、山内上杉氏の家宰、大石憲重は武蔵国守護代であった。それに金子氏のほか加治・長井・安保などの武蔵国国人らが、守護憲基に味方していたのである。
 武蔵国国人として山内上杉氏に属した金子氏は、文明のはじめ、金子掃部助が長尾景春に与して、相模国小沢城に籠り上杉方と戦った。長尾景春は山内上杉氏の家宰であた景信の子で、父景信の死後、家宰職が叔父忠景に奪われたため、上杉氏に背き古河公方足利成氏と結んだ。山内上杉氏に従っていた金子氏が景春に味方したのは、景春が主家山内上杉氏の執事白井長尾氏の嫡流であったからであろう。
 文明九年(1477)四月、扇谷上杉氏の執事太田資長(道灌)は小沢城を落とし、その残党を武蔵国奥三保に遂っている。
 上杉氏と対立した古河公方成氏は、文明十四年(1491)に和解した。そして、延徳三年の伊豆国堀越公方の滅亡によって、古河公方は幕府公認の鎌倉公方の地位を回復した。
 やがて、伊豆国から相模国に入ってきた後北条氏は、次第に武蔵国をその支配下に組み入れていった。そのころ武蔵国は、江戸・河越・岩槻の三城を支城とした扇谷上杉氏が、南部地域を支配していた。その扇谷上杉氏の領域が後北条氏の支配するところとなった。しかし。河越城に近い入東郡内にあった金子氏は、なお山内上杉氏に属していた。
 ところで、武蔵金子氏の文書は『萩藩閥閲録』でみられる。同書の一点に、永和五年(1379)二月十六日付宗基譲状がある。『金子家譜』によれば、宗基は家祐の子家重で、かれの法名である。この譲状によって金子氏は南北朝時代の末ごろも、その本貫の地である武蔵国金子郷を伝領していたことが知られる。

金子氏の流転

 また金子家には、北条氏康の判物もあった。金子大蔵少輔と同新五郎に宛られたもので、家譜によれば家名がとその子充忠に比定できる。家長は天文十五年(1546)十月、充忠は弘治元年(1565)十一月にそれぞれ死んでいることから、氏康判物は、天文十五年以前に発給された文書であることが知られる。
 金子氏の本領であった旧入間郡仏子村の高正寺に所蔵されている「金子家系譜」にみえる家長・正助父子が、家長・充忠父子と同一人物と考えられる。同家譜によれば、家長は北条氏康に、正助は天文十四年より氏康・氏政に属したとある。
 天文十四年九月、上杉憲政・同朝定は氏康の部将北条綱成が守る武蔵国河越城を攻め、翌年、朝定は討死し上杉方は大敗した。家長父子にあてたさきの氏康判物は、この合戦ではじめ上杉方に属していた家長らを誘い、本領の安堵と新恩の地を与えることを約束したものであった。
 その後、金子十兵衛は北条氏照の下野進出に従った。この十兵衛は正助の子家定と考えられる。北条氏照は下野国小山・榎本両城と下総国関宿・栗橋・水海の諸城を支配したが、その小山城の番衆に金子左京亮がおり、左京亮は氏照から久下郷代官を命じられ、栗橋城の普請役を課せられている。
 天正十八年、豊臣秀吉による小田原征伐で、武蔵国内の後北条氏支城は前田利家・上杉景勝の軍勢に攻撃された。上杉勢が武蔵松山城を攻めたとき、城主上田朝直は小田原本城に詰めていたため、金子紀伊守家基は難波田・若林の諸氏と留守居を勤めていたが、かれらは上杉方に降り、その先兵となって八王子城を攻めた。  家譜によれば、家定の弟正義は、北条氏政・氏直に仕え、天正十八年直江兼続の手に属して討死したとある。兼続は上杉景勝の重臣であるから、八王子城攻めに上杉方に属して討死したものであろう。一方、金子三郎右衛門は八王子城内金子丸を守って討死している。
 高正寺所蔵家譜によれば、正助の子家定は天正十五年(1587)に死去し、家督を継いだ政熙は、北条氏滅亡ののち上杉景勝に属し、慶長五年(1600)の徳川家康による会津出兵によって、景勝の領地が削減されたとき浪人の身となった。その後、京都守護代板倉勝重に仕え、その子政景は板倉家の老臣として重用されたとある。のち政景はある事情から自害し、長門藩主毛利秀就の家臣宍戸元真の女であった政景の妻は、子就親を連れて実家の宍戸家にもどった。そして、就親は外祖父の主家毛利氏に仕えたのである。
 戦国時代の末まで武蔵国にあった金子氏文書が、西国の萩藩士の家に伝来したのは、政景の妻子が実家である宍戸家に帰ったときに持参したからであった。


■参考略系図
・金子氏の系図は、二つの流れのものが伝わっており、少なからぬ異同がみられるが、それぞれ後半で同じ人名が見い出されるのである。
    


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