後閑氏は新田義貞の弟義重に起こるという。義重は新田四郎と号し、義貞が挙兵したとき新田郷にとどまった。 建武の新政がなたのちに起こった「中先代の乱」に際して北条時行が率いる信濃軍が上野を経て鎌倉へ攻め込もうとした とき、新田四郎はこれを利根川に防戦しようとしたが衆寡敵せず一敗地にまみれた。その後、中先代の乱は 足利尊氏によって制圧され、新田四郎は功績を認められて甘楽郡に土地を与えられた。義重は新領地となった丹生山に 居を移し、子孫が相継いで戦国時代に至ったという。 ちなみに後閑氏の出自に関して 『上野志』には「新田義貞の末弟である義重が、北条時行による中先代の乱(建武二年=1335)の戦功により、 丹生城を賜り、以後、主水正景純までの八代が居城したとされ、景純は北条内匠頭政時の居城である後閑城を攻略し、 永禄三年(1560)に甲斐武田氏に服属した」とある。また、『上州故城塁記』には、「新田四郎義重は新田義貞の 末弟であり、中先代の乱の際に北条時行と上州で戦ったと「太平記」に記されており、その後足利直義は義重の戦功に 報い甘楽郡を与えた。のち代々相続して丹生山に居住し、義重七代の孫である主水景純は後閑城に転居した」とある。 一方、「新田系図」には、岩松氏の後裔が後閑を称したという記述もある。いずれにしろ、後閑氏は清和源氏新田氏流を称し新田義重七代の後裔にあたるという新田景純の登場までの事蹟は明らかではない。 後閑城主の変遷 新田景純は新田主水正ともいい、碓氷郡後閑の領主である北条政時を滅ぼして、後閑を領するようになった。後閑に移った景純は箕輪城主長野業政に属するようになり、永禄六年(1563)、景純の子信純のとき、武田信玄の侵略を受けて敗れその幕下にくだった。そして、同十年に後閑城に入れられたことから後閑を称するようになったのだと伝える。 新田信純が入城した後閑城は、嘉吉元年(1441)から文安四年(1447)にかけて、信濃御嶽城主の依田忠政が築いたといわれる。後閑依田氏は忠政の子政知を経て光慶のとき、箕輪城主長野業政の女を室としてその羽翼となり、天文七年(1538)に板鼻鷹巣城に移ったと伝える。そのあとに北条政時が入り、さらにのちに新田氏が北条氏を逐って城主になったわけだが、その間における城の歴史は不明である。 ところで、新田信純が武田氏に走ったのは永禄二年のことといい、『安中志』には、永禄三年より新田信純が後閑城に居城するとみえている。永禄三年は越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)が管領上杉憲政を奉じて関東に出兵した年で、そのとき、景虎の陣に馳せ参じた関東諸将の幕紋を記録したのが『関東幕注文』である。そのなかには、後閑氏が属していた箕輪城主長野氏ら上野諸将の幕紋が記されているが、新田後閑氏の幕紋はみえない。このことは、新田後閑氏がすでに武田氏の陣営に走っていたことを語る傍証といえよう。 一方、依田政知が開いた長源寺の寄進状から、新田氏が甘楽郡丹生城から居を後閑城に移したのは弘治元年(1555)、景純の代のことだとする説もある。すなわち、風雨に曝され荒廃していた長源寺を後閑城主の新田信純が弘治元年に再興し、弘治二年に寺領若干を寄進したとするものである。 いずれが真実を伝えたものであるのか、その判断は難しいが、新田氏が十六世紀の中ごろに後閑に移り、氏を後閑に改めたことはまず疑いないものといえよう。また、信純に関して『上野志』では伊勢守信継とし、『上州治乱記』では長門守宗繁となっていて、後閑氏の歴史に関しては分かりにくいところが多い。 後閑氏と戦国時代 さて、信純には三人の男子がいたようで、天正五年(1578)、長男信重は総社に分家して石倉城主となり下野守を称した。翌年、信純が死去したのちは二男の重政が後閑氏を継ぎ、三男の信久は信玄の命で上条家を継いだ。『安中市史』の記述によれば、永禄十二年、武田勝頼が駿河の今川氏真と戦ったとき、信純と嫡子の信久は武田氏の幕下として出陣し信純・信久ともに戦死した。そのため、家督は信久の子真純が継いだと記されている。 天正十年三月、武田氏は織田氏の侵攻によって滅亡し、信長の部将滝川一益が関東管領として厩橋に入城した。一益は家臣津田小平次を松井田城将とし、津田は後閑城を攻めて真純を滅ぼしたという。一方、「日本城郭体系」の後閑城の記述によれば、武田氏滅亡後、後閑下野守信重は北条高広に従い、重政・信久の兄弟は小田原北条氏に属した。そして、重政と上条から後閑に改めた信久は両後閑と呼ばれるようになったとある。ちなみに、天正十一年の「後閑文書」に北条氏から両後閑氏に宛てたものがある。それは、出陣の際における両後閑の配下の員数を定めたもので、両後閑氏が後北条氏の幕下にあったことを示す史料である。 天正十二年、北条高広が小田原北条氏に降り大胡に移ったとき、北条氏政は両後閑氏に厩橋在番を命じた。天正十八年(1590)、小田原の陣に際して両後閑氏は小田原に籠城し、後北条氏の没落と運命をともにして後閑城は廃城となった。弘治元年(1555)に新田景純が後閑城を攻略して居を移してからわずか三十五年後のことであった。・2007年04月24日 【参考資料:安中市史/日本城郭大系 ほか】 ■参考略系図 |