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富士氏
石持棕櫚団扇
(和邇部氏)


 富士山本宮浅間大社は富士山を御神体として祀る古社。全国に数多くある浅間神社の総本宮。祭神は木花佐久夜姫で駿河一宮。
 富士山本宮浅間大社の大宮司家は富士氏で、孝昭天皇の後裔とされる古代豪族和邇部氏の裔になる。系譜によれば、天平神護期、和邇部宿禰宗人が駿河掾に任じられ、その子豊麻呂は富士郡大領をつとめていることが知られる。以後、子孫は同地方に勢力をたくわえていったようで、豊麻呂の孫国雄は浅間社祝となっている。降って時棟が初めて浅間神社の大宮司となった。以後、時棟の子孫が大宮司職を継承している。

武士として乱世を生きる

 南北朝期は南朝方に属し、大宮司駿河守信能の子能信の弟勝政の子義尊は富士郡十二郷の地頭で、その子義勝の娘は楠木正行の妻、義尊の弟昌尊の孫義春は正行に従った。能信の子直時は、建武年間頃に駿河国有度郡下島郷の地頭となり、その孫成時の代に今川泰範に従った。
 大宮司家富士氏と駿河守護今川氏との関係が文書上確認できるのは、康安二年、今川氏二代範氏のときで、範氏が大宮司領である駿河国匂金と栗原郷への使者乱入狼藉停止を命じている文書が初見である。今川三代泰範も。至徳元年(1384)に範氏のときと同じ様な内容を命じている。また、泰範は応永七年(1400)、富士浅間宮に対して平宇郷・貫名郷などを寄進している。以後、範忠・義忠・氏親・義元など、代々の今川家当主との関係を深めている。
 ただし、今川氏初期の段階では、崇敬と保護の目的であったが、義元の時代にいたると、領国経営に取り込み、寺社の統制として今川権力が、直接神事にも介入してきている。また、このころ大宮司家も一国人領主として、今川氏に属していたようだ。天文六年、富士信忠は小泉坊に籠った反乱者を討ち、義元から賞されている。その後、義元が桶狭間で討たれ、あとを継いだ氏真の柔弱もあって今川氏は衰亡してゆくことになる。
 永禄十一年(1568)十二月、武田氏による駿河侵攻が開始され、庵原郡一帯や駿府周辺が攻略されても、富士氏は今川方として大宮城に籠城し、武田軍の来攻を数度にわたって防いでいる。しかし、元亀二年(1571)氏真の命により、今川氏を離れ、武田氏に服属することとなった。以後、富士氏は、武田氏の分国下での国人領主の性格が薄れ、大宮司としての側面で活動することとなる。
 こうして富士氏は戦国期を乗り越え、明治維新にまで続いている。一族からは武士を捨てず、徳川旗本家になったものもいる。また、家康二十六将のひとり、米津常春の米津氏は富士氏の分かれという。


■参考略系図
    


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