近江源氏佐々木氏の一族で、鎌倉・南北朝時代の守護大名。宇多源氏の成頼が近江国蒲生郡佐々木庄に住み、子孫は佐々木氏を称した。成頼の玄孫秀義は源頼朝を援けて活躍。長男重綱は坂田郡大原庄を、次男高信は高島郡田中郷を、三男泰綱が愛智川以南の近江六郡を与えられて佐々木氏の嫡流として六角氏となった。 秀義の五男が義清で、出雲・隠岐の守護に補せられて、子孫は同地方に繁栄した。 義清の孫出雲守護頼泰は、惣領として塩冶郡を根拠とし、塩冶左衛門尉と称した。これが塩冶氏の祖である。貞清を経て、南北朝初期に名をあらわしたのが塩冶判官高貞である。 高貞は、父のあとを継いで出雲守護となり、元弘三年(1333)閏二月、後醍醐天皇が隠岐を逃れて伯耆国船上山に挙兵すると、その召しに応じて千余騎の兵を率いて馳せ参じ、六月には供奉して入京。建武政権成立ののち、高貞は千里の天馬を献上し、その吉凶について洞院公賢・万里小路藤房らが議論したという。 建武二年十一月、足利尊氏が鎌倉に叛すると、高貞は新田義貞軍に属して足利軍と箱根竹ノ下に戦ったが、敗れて尊氏に降り、やがて出雲・隠岐守護に補任された。 暦応四年(1341)三月、高貞は京都を出奔、幕府は高貞に陰謀ありとして、山名時氏・桃井直常らに命じて追跡させ、数日後高貞は播磨国影山において自害した。一説には、出雲国宍道郷において自害したともいう。 高貞の妻は後醍醐天皇より賜った女官で、美人の聞こえが高かったため、尊氏の執事高師直が想いを寄せ、叶わず尊氏.直義に高貞の謀叛を讒言したので、高貞は本国の出雲に帰って挙兵しようとしたのであるという。 高貞没後、弟時綱の子孫から室町幕府近習衆が出ている。また京極・山名氏の被官人となったものもあるらしい。尼子時代に尼子経久の三男興久が塩冶氏を継いだが、父に背いて自刃した。 ■参考略系図 |