一般には村上源氏とされ、源有兼が小野盛兼の子季兼を養子に迎えたという。そして、季兼が相模国海老名郷に土着して郷名を名字としたことに始まる。しかし、これは相模守を務めた有兼に結び付けようとした潤色と思われる。おそらく、当初から武蔵七党のひとつ横山党に属し武蔵小野郷を本貫とした族であろう。 のちに家督争論のために数流の海老名氏に分かれて、その一流家季は長治元年(1104)に播磨国那波に移住し、播州海老名氏の祖となった。その子孫は矢野庄を中心に活躍し、在地領主として鎌倉時代から室町時代に及び、江戸時代には百姓身分ながら、相生村の名家として存続した。 ところで海老名氏は、源頼朝が平家打倒を目指して挙兵した石橋山合戦では頼朝に敵対したが、その後、海老名季久は源平合戦に功をたて、幕府御家人となった。また鎌倉幕府滅亡後も室町幕臣としても続いている。 「見聞諸家紋』には海老名与七政貞の名を挙げ、その家紋として「庵に二つ木瓜」が収録されている。また、羽継原合戦記(長倉追罰記)には 「海老名は庵に瓜のもん也」とみえる。武家として、それぞれの時代を生き抜いていたことが知れるのである。一族として、荻野・小野・本間・国府などの庶家が分出している。 播磨に生きる 家季の孫で嫡流にあたる盛重は、歓喜光院領矢野荘別名の下司となり、居住する大嶋附近を、本国相模の「相」の字を取って相生村と名付け、鎌倉八幡宮を勧請したという。別名の下司職は、盛重から頼保-季茂-頼重-景知-知定と子孫に相伝された。また、矢野荘例名浦分の地頭職も、季景から、季直、通貞を経て、知定が相伝した。なお家季から出た別の一族は、八条院領矢野荘例名の地頭となり、泰季のとき、永仁六年(1298)下地中分によって、例名東方の領主となった。 南北朝の動乱期には、一族が守護赤松氏に属して各地に転戦した。景知は嫡子知貞・その弟詮季・同族泰知らを伴って赤松の白旗城に籠った。その間に、新田義貞方のために居城大嶋城を焼かれている。 室町時代から戦国時代には、守護赤松氏から若干の扶持を得、土豪として存続したが、斜陽化の傾向は覆うべくもなかった。豊臣秀吉が天下を制し、太閤検地が行われた結果、海老名氏は百姓身分となったが、江戸時代には先祖の功績により、藩主から永代無組として所持田畠の高役のほか、諸公事を免じられ、名家として存続した。 ■参考略系図 ・『西播磨古典叢書』の「播州海老名家系譜」を底本として作成 |