土居氏の出自は『清良記』によれば、紀伊国牟婁郡土居の鈴木党に発する伝えられている。 鈴木重家は文治五年(1189)源義経に従って奥州下向にあたり、嫡子千代松(太郎清行)を伊予の河野通信に依頼したという。清行は宇和郡土居中村を与えられて土居氏を名乗り、子孫相継いで清宗に至ったと伝えられている。もっともこれについては、宇和庄が鎌倉時代以来西園寺家の荘園となったので、在地の開発領主が名主的土豪として西園寺家の支配にくみこまれたものとされる説もある。 戦国時代、清宗は大森城を根拠として活躍する。また、文武兼備の勇将でもあった。西園寺実充は清宗をもっとも頼りとしたが、北に宇都宮、南は土佐の一条、西の海上からは大友氏の進出に悩まされていた。侵攻があった時には清宗が常に出兵して敵を撃退した。天文十五年三月、実充の要請で清宗は一族とともに石城の改修を行った。そして、同年七月から十一月にかけて大友軍の来襲があった。これは退けたが、文禄三年(1560)再び石城は攻撃を受け、奮戦空しく清宗は戦死し、子清貞もともに討死した。 この頃、土佐の一条氏も進出してきており、清宗の孫清良は一条氏への人質となっていたが、永禄五年帰城し、勢力拡大に努力した。清良の活躍については『清良記』に詳しい。清良は豊臣時代、関ヶ原の合戦も乗り切り、寛永六年(1629)三月、八十四歳で死去した。子孫は代官、庄屋をつとめ明治維新を迎えている。 ■参考略系図 ・『清良記』の記事から作成。 |