【補遺_1】 安国寺氏/長束氏/仁賀保氏/矢島氏/原田氏


安国寺氏 【割 菱】
 安芸守護家の銀山城主武田信重の遺子と伝える。銀山城が毛利氏に落とされ、武田氏が滅亡したとき、東福寺末寺であった安芸安国寺に逃れ、竺雲恵心の法弟となった。恵心は毛利氏の外交僧としても活躍したが、恵瓊はそのあとを受けて、当代きっての外交僧となる。
 のちに秀吉の政権下で伊予六万石の大名となった。一方で、安芸安国寺の住持。また東福寺退耕庵庵主、東福寺二二四世、そして南禅寺住持の公帖を受け、禅僧としての最高位に達した。関ヶ原の戦では石田三成方に属し、戦後京都六条河原で斬られた。


長束氏 近江国水口城【唐花菱】
 長束正家は、はじめ近江佐和山・大溝城主丹羽長秀、同長重に仕えた。出自は明らかではない。天正13年(1585)まで長重に仕えて越前府中城にいたが、財務に長じているのを秀吉に見込まれて、同年七月、秀吉の奉行衆に抜擢された。
 天正19年には、やはり秀吉奉行の増田長盛とともに近江の検地を実施し、翌年には肥前名護屋城の造営を奉行、文禄三年(1594)には伏見城の造営に大きな役割を果たしている。翌年、大和郡山へ移封された増田長盛の跡を襲って近江水口五万石に封ぜられ大名に列し、以後累増して関ヶ原の戦い直前には十一万石を領し、従四位下侍従に昇っている。
 関ヶ原の戦いでは、弟直吉とともに西軍に属し、正家は美濃南宮山に陣し、直吉は水口城を固めた。しかし、南宮布陣の大将吉川広家は平素より石田三成を憎み、戦前に家康への内応の契約をなしていたので正家は動けず、やむなく水口へ戻って同城を固守した。


原田氏 【丸に万字】
 原田氏ははじめ塙氏を称した。先祖は常陸国塙村に住んで家名とし、斯波家に属して尾張国に移ったとされるが、確証はない。直政は重友ともいい、早くより織田信長に仕え、たびたびの合戦に参加して頭角をあらわした。室町幕府が滅亡した翌年に山城守護に任られ、また大和守護もかねた。しかし、天正四年の石山合戦で討死してしまった。子の安友は秀吉に仕え、秀次に配属された。しかし秀次事件ののち浪人した。

直政−安友−宗安


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