秋庭氏は桓武平氏三浦氏の分かれといわれる。すなわち、三浦義継の子津久井義行の子義光が秋葉三郎を名乗ったことに始まるとされる。しかし、この秋葉氏がのちの備中秋庭氏につながるのか否かの真偽は不詳である。 三浦義継―津久井義行―秋葉三郎義光―義方―義高 秋庭重信は、承久の乱後、鎌倉幕府から戦功の賞として備中国有漢郷の地頭職に補せられた。いわゆる新補地頭の一人であった。その後、任地に赴き、現在の上房郡有漢町貞守、台ヵ鼻に台ヵ鼻城を築き、以後、約18年間ここを居城とした。 元治元年(1240)、備中路における最大の軍事拠点となる臥牛山の大松山に、初めて城を築いたのも秋庭三郎重信であった。 鎌倉幕府は新見東寺の荘園紛争につき、領家新見九郎貞直の横領を止めさせるように、秋庭備中守(重明)を備中における実力第一人者として命じたが、効果もなく、貞直の横領は重明が備中松山城主となるまで続いた。また、重明は有漢町の土井に屋敷を構え、その正面に防備を施した常山城を築き、地域荘民からの信頼も得て、徐々に国衆としての地位・軍力を確立していった。正平年間の頃には、京都の足利義詮の御教書を受け、新見荘領家職の乱暴まで止めさせている。 建武以前の秋庭氏は 三郎重信―又四郎信村―平六重連―小三郎義継―三郎重知 南北朝の内乱の初期には、松山城主は秋庭氏に替わって、高橋氏の四代23年間と高氏の七年間の支配期間があった。その間、秋庭氏は高氏の執事などを務めていたが、正平十七年(1362)に至って秋庭信盛は山名氏に通じ、高氏を追放して松山城を回復した。応永六年(1399)大内義弘が泉州界で幕府に背いたときに、信盛は将軍足利義満に属して出陣した。 嘉吉元年(1441)、赤松満祐が将軍義教を殺した時には、元明は細川管領家に従い幕府討伐軍に属して、播州へ出陣して播州蟹坂、次いで白旗城攻めに加わり、赤松満祐を討ち取るなどの戦功を立てた。文安二年(1445)細川勝元が室町幕府管領となると、その側近にあって重用され、勝元の奏者番を務め、文正元年(1467)頃には摂津守護細川勝元のもとで守護代を務めていた。 応仁・文明の乱が起こると、東軍細川勝元に従い、京都・摂津で西軍山名勢と戦い、応仁元年九月には京都・東岩倉山に三千騎を率いて陣を敷き、備前三石城主浦上則宗の助けを得て、押し寄せた山名勢三万騎と戦ってこれを撃ち破った。 元明のあとを継いだ元重は、幕府管領細川政元の側近として重用され、その奏者番を務めた。長亨元年(1487)将軍足利義尚が起した近江の佐々木高頼討伐に従い、明応元年にも将軍義材の高頼討伐に従軍した。延徳三年〜永正四年(1489〜1507)京都・東寺領新見荘の所務名代を務めた。この頃、秋庭氏は京都に住むことが多かったようで、永正六年(1509)に、元重は松山城を去って有漢郷に帰り土着したという。 その後、各地で豪族が勢力争いに明け暮れる、戦国時代に突入するのであるが、その時代には武将家としての秋庭氏の姿は見いだせない。 建武以後は 三郎信盛―三郎重明―八郎頼重―平之允頼次―備中守元明―七郎重継―備中守元重 ●秋庭氏の系図に関しての詳細は不詳。御存知の方、御教示ください。 |