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赤木氏
向う茶の実*
(桓武平氏秩父氏族)
*家紋については「ごさんべー」さんにご協力いただきました。ありがとうございました。


 鎌倉時代に信濃国筑摩郡赤木郷を本拠とした。「赤木家系図」によると坂東八平氏のうち良文流秩父氏の流れで、忠兼が信濃に入って白河氏を称し、その子親忠が赤木を名乗ったとされる。親忠の子が長忠で、その子たちが、赤木郷の南方、北方、東方にそれぞれ分かれたという。
 承久三年(1221)忠長は、承久の乱の勲功により備中国穴田郷の地頭を賜わり、間もなく入部したようである。以後、備中国が活動の主体となっていくのである。しかし、信濃にも所領を残していたことが、嘉元三年(1305)の「関東下知状」で知れる。それによれば、忠長の孫忠光と忠光の甥の盛忠が、吉田郷の田と小池郷の在家の所有を争ったが、和解して忠光に渡っている。
 この忠光は、備中国の塩田赤木氏の祖とされる人物で『吾妻鏡』の延応元年の記事に「赤木左衛門尉平忠光」とあり、六波羅飛脚として四日間で京と鎌倉の間を駆けた、とある。
 高梁氏穴田の極楽寺跡、同市本郷の蓮華寺、同市宇治の養福寺および赤木氏が築いたと伝える滝谷城の山麓には南北朝〜戦国期にかけての数百基にのぼる五輪石塔や宝篋印塔が残っており一族の繁栄の様子をうかがうことができる。鎌倉〜室町期における赤木氏の動向は必ずしも詳らかではないが、応仁二年(1468)に備中守護細川勝久の軍勢が備中北部の土一揆鎮圧のため、穴田郷まで討ち入ったとき、赤木氏らは地下の郷民を糾合して、その侵入を排除するほどの勢力を有していた。
 赤木氏の家系図は地元の赤木家にいくつか伝わっているとのことで、長道・塩田・田原・阿伽井田などに分住したことが知られ、これら赤木氏は赤木を名乗るとともに、それぞれの地名をとって名字としたようである。塩田の赤木氏が嫡宗的な立場に立ち、戦国時代になって顕著な活動をはじめる。


乱世を生きる

 戦国時代の備中国は、三村氏が勢力を振るった。伊豆守忠国の孫蔵人忠房の妻は三村氏の一族親成の女で、親成の妻は忠房の叔母であって、三村氏と親密な関係にあった。
 天文二十二年(1553)三村家親は毛利氏と和してこれに従い、猿掛城主荘為資を降し、さらに美作に進出して三星城主後藤勝元を攻めた。そこで勝元の救援に応じた宇喜多直家が出兵、三村氏の軍は大敗、翌年三村家親は直家に暗殺された。家親の遺臣らは復仇のために備前沼城に直家を攻めたが、却って敗れ三村氏の勢力は後退を余儀なくされてしまった。
 家親の子元親は松山城を守り、永禄十年(1567)、直家と妙禅寺に戦って敗れ、毛利氏を頼った。ところが元親は天正二年(1574)織田信長を頼んで毛利氏に背いたため、その翌年、毛利輝元・小早川隆景らに攻められて松山城は落ち三村氏は滅亡した。
 三村元親が毛利氏と争ったとき、赤木氏は微妙な立場にあった。しかし、赤木氏は三村氏と絶って毛利氏に属した。その後、毛利氏に属し、秀吉による高松城の水攻めに際して毛利勢の内から援兵として場内に入った中に赤木丹後守があり、これは赤木与四郎忠直のことであろうといわれる。
 赤木氏はこの後も毛利氏に従ったが、関ヶ原の戦いののち、毛利氏が防長二国に移封されると、それに伴って移住したもの、毛利氏を離れて土着帰農したものに分かれた。忠房の子孫は、塩田村の庄屋を務めたという。なお、赤木蔵人の後裔にあたる赤木家には、平安後期の鎧・兜(国指定重要文化財)や古文書が伝えられている。




■参考略系図
岡山県立図書館蔵書などを参考に作成。


Ver.1 系図


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