桓武平氏平貞盛の分かれと伝える。「陶山氏系図」によれば、貞盛六代の孫盛高は、源義家の長男義親の謀叛に際して九州まで追討使として発向、義親を捕えて隠岐国に流すことに功をたてた。その後、義親は隠岐を脱出して出雲国に渡り、諸吏を殺害、官物を奪い、諸城を陥すなどの乱暴狼藉を働いた。これに対し朝廷は平正盛を追討使とし、盛高はその先鋒となって出雲国に発向、天仁元年二月、義親を討ってその首をもって帰洛した。盛高に抜群の功ありとして、備中国小田郡の内魚緒・西浜・甲努の三郷を恩賞として賜った。盛高は陶山和泉守を称し、備中陶山氏の祖に位置づけられている。 ところで、『姓氏家系辞書』をみると、笠岡浦の豪族であったことから、古代笠臣の後裔か、とも記されている。また、後世には大江姓も称している。 備中国に住したのは泰高で、父盛高と同じく平氏に仕えた。大治四年三月、南海道に海賊が出没、賊は海上交通を妨げ、民家を襲い狼藉の限りを尽くし、ついには大崎島に立て籠り、いよいよ猛威を振るった。これに対し、平忠盛は院宣を受けて、泰高一族を先鋒として大崎島に攻め寄せ、賊を悉く退治した。この賊征伐のあと、泰高は廃城となっていた小田郡西浜村の古城を再興して陶山城と改め、以後、そこに拠った。 その子勝高は平治の合戦で小松重盛に従って源義朝の子義平と戦い、奮戦、平氏の勝利に尽くした。戦後、清盛はその功を賞して陣羽織を賜ったと伝える。その子高光も平氏に仕え、源平合戦では、能登守教経の与力として、讃岐の源氏方との戦い、屋島の合戦などに功をたて、壇の浦でも源氏方を相手に奮戦したが、壇の浦合戦の最中に源氏方安田義遠の矢に射抜かれて討死した。 乱世に呑まれる 鎌倉末期の陶山義高は陶山城から笠岡山城に居を移し、元弘の乱には幕府方として後醍醐天皇に敵対した。笠置山の戦いにも出陣し、一番乗りの功を挙げている。その後、後醍醐天皇方が優勢となり、赤松円心らによって六波羅が攻められると、備中国の兵とともに京に馳せ上ったが既に六波羅は陥ち、探題北条仲時らも落ちたあとであった。義高は仲時を追って近江国で合流したが、番場において野武士に前途を遮断され、合戦に及んだがついには敗れて、仲時とともに自刃してはてた。『近江番場蓮華寺過去帳』には、このとき討死した陶山一族の名が残されている。 南北朝期以降は、室町幕府に仕え、幕府の両使・奉公衆として活動したことが知られている。『見聞諸家紋』をみると、奉公衆五番として陶山氏の家紋「洲浜に山文字」が収録されている。 陶山氏の系譜が、神島内村の自性院に伝わっている。その奥書には、永正三年(1505)七月、笠岡城山城主陶山刑部高雅は、讃岐国細川満氏の将村上満兼の来攻にあい、防戦能わず城を明け渡し、自性院に落ち、しばらく同寺に寓居したという。その間に陶山氏の家系を模写してそれを納め、布施を行った、時に永正三年八月三日とあり、高雅の花押が記されている。しかし『小田郡誌』には、同系図の世代譜伝が、古文書に符号しない部分が多いと書かれている。いずれにしても、この高雅の代で、源平時代より続いた陶山氏の歴史も幕を閉じたということになろう。 備後国深安郡坪生に、陶山氏の一族坪生氏がいた。同地の寒森神社に「天文六年(1537)丁酉霜月 陶山又次郎武高」とある古棟札が残されていることから陶山氏一族であることは疑いないが、その系譜は不明である。戦国時代、一時勢力を振るい、小田郡陶山村・稲倉村などを領したが、のち毛利氏に服し小早川氏の麾下となった。 ■参考略系図 |