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粟屋氏
石持五本骨扇*
(清和源氏義光流安田氏族)
・近世萩藩武士、粟屋氏の家紋。
九曜を用いる一門もある。


 源義光の曽孫義定は源頼朝に属し平家追討のとき源義経に従って軍功を挙げ遠江国を領知し、安田城び住して在名をもって安田氏を称した。義定の曽孫元義が常陸国粟屋に居住して、大江広元より一字を授けられて主従関係を結んだという。元義より五代目の親義から粟屋を称し、建武三年(1336)毛利時親の安芸下向に追従して安芸に下ったという。
 戦国期の当主は元国で、大永三年(1523)、毛利家の家督相続をめぐって家中に対立が生じたとき、当時病にあった彼は、一族の元秀を神仏詣でを名目として上京させ、将軍に元就相続を直訴させた。亨禄二年(1529)五月、ついで八月の安芸松尾の合戦で戦功を挙げ、元就より感状を受けている。
 元国の甥就方は、天文二十三年の安芸明石、翌二十四年の矢野の合戦で先陣をつとめ、元就・隆元父子より感状を受けている。元就の信頼も厚く、永禄六年頃からは、元就の命を受けて備中三村家親のもとに赴き、三村氏への出陣要請をはじめ、備後衆を率いて備中に出陣するなど、おもに備中方面の軍事活動を指揮した。
 元秀の孫元通は、天文十七年六月の備後神辺城攻めをはじめ、防長攻防戦、伊予攻めなどで活躍し、岩国の代官もつとめた。元亀三年の毛利氏掟では年寄衆のひとりとしてこれを確認している。
 同じく元秀の孫に元親がいた。永正十五年の備州赤屋の合戦では幼少のため名代を派遣したが、天文九年(1540)の安芸造賀における平賀衆との合戦や、同年十月の尼子衆との合戦で戦功を挙げ、尼子衆との合戦では傷も負った。弘治二年(1556)三月の防長侵攻戦では五十余人を討ち取っている。天文十九年に五奉行制が成立すると隆元直属の奉行人としてこれに参画し、その手腕を発揮した。
 粟屋氏は毛利氏に属して各地に戦い、譜代の臣として重用された。江戸期には寄組として毛利氏に仕えた。


■参考略系図
    


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