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安宅氏
抱き柊/三階菱
(清和源氏小笠原氏流*)
*紀氏族・橘姓説も。


 安宅は安宅木とも書き、紀伊国牟婁郡安宅荘より興ったといわれる。観応九年、将軍義詮花押の文書に「淡路沼島の海賊退治の事を安宅一族に命ず」とみえ、享禄年中、安宅河内守安宅城に拠るとみえる。これより一族淡路において多いに栄えた。由良の古城は、この安宅氏の拠点であった。淡路常磐草にも「浦人の伝説に、文正の頃、安宅甚五郎が居城したと記されている。 
 橘姓を称し、がんらい熊野水軍で、南北朝時代以来、細川分国の淡路国に拠って水軍の頭目として活躍した。細川名字衆に加えられた海賊出身の淡路国人衆の一。由良城を本拠とし、炬口城・洲本城に進出、淡路全島に勢力をもった。のち三好長慶が弟冬康に家督を継がせる。
 冬康が安宅氏を継いだことで、三好氏の大阪湾岸制圧には大きな効果があった。冬康は和泉の岸和田城に進出し、兄義賢(実休)とともに長兄長慶の畿内制圧をたすけた。また摂津守に叙任し、鴨冬とも号した。和歌をたしなみ、書を能した教養人でもあった。
 しかし、松永久秀の讒言により、長慶から謀叛の疑いをかけられ、永禄七年(1564)五月飯盛城中で殺害された。その子信康は三好三人衆に一味して活躍。やがて織田信長についたが、次第に毛利氏に傾いたため、天正九年(1581)羽柴秀吉によって滅ぼされた。

『安宅一乱記』の安宅氏

 ところで、戦国期における安宅氏の内訌を記した『安宅一乱記』によれば、安宅氏は清和源氏小笠原氏の一流とある。鎌倉幕府に対して後鳥羽上皇が兵ゐを挙げた「承久の乱」に際して、小笠原長清は数々の戦功を立て、それによって信濃守に任じられ、紀伊・阿波・河内三国の守護となった。安貞元年(1227)熊野衆徒が土御門上皇を迎え奉らんとする風聞があり、阿波から熊野へ渡海したと『明月記』にみえる。そして、この時に、のちの安宅氏の本拠となる多知(のちに安宅)を小笠原氏の領所としたようである。そして、長清から九代目にあたる頼春がはじめて熊野に本拠を置いた。
 系図によると、頼春は多知を安宅と改め、自ら安宅を称した。さて、安宅氏が紀州熊野へ入ったのは、後醍醐天皇が討幕に立ち上がった元弘の乱(1330年)の頃であろう。それから、二十年を経た観応元年(1350)には、すでに足利氏から四国方面の海賊退治の再度にわたる督促状が出されている。そして、その命を受けて目的を達し、阿波国竹原庄内本郷地頭職に補されている。この海賊退治は頼春から四代目の安宅備後守頼藤の時代であった。
 安宅頼藤は正四位、上卿に補されている。そしてそれより前には、一族三千余騎をもって、摂津国摩耶城に籠る赤松退治にも出向いている。安宅氏隆盛の基盤は頼藤の時代に作られたといっても過言ではない。頼藤の弟は周参見氏の名跡を継ぎ、阿波にも領地を有し、嫡男の近俊は阿波・熊野両所に居城し、二男安重は湯川庄司の女を迎えて日高郡小松原を分領した。こうして、紀伊水道をまたにかけた一大水軍が現出したのであった。
 その後、義舜の時代にいたり、弟は那智山上ノ坊に入って安宅入道と号し、東牟婁郡太地の領主和田氏の女を室に入れ、この姻戚関係を通じて安宅氏の勢力はさらに拡大した。
 亨徳三年(1452)紀伊守護畠山氏に内訌が起こった。すなわち、畠山持国は養子政長を排して実子義就を世継ぎと定めたことから、紀伊国内の諸豪は大きく二分されて互いに反目する騒ぎとなった。このとき、安宅直俊は政長方について、寛正四年(1463)目良・神保・小山の諸軍勢と一手となって、義就方の山本氏を攻めている。
 直俊の子実俊は、永正四年(1507)龍松山城に籠る山本氏を再び攻め、同十年に至って山本氏を打ち破り、翌年山本氏の領地であった生馬の地頭職に任じられ、さらに、当時宗教的に絶大な権力を握っていた那智山実方院主の女を妻に迎えて、安宅氏の勢いは一層強大なものとなった。

安宅氏の内訌

 しかし、大永六年(1526)に、実俊が病没し、嫡男が幼少だったことから、安宅氏家督はその弟定俊に預けられた。ところが、実俊の嫡男安定が十六歳になったにもかかわらず、定俊は家督を譲らず、ついに叔父と甥との家督争いに発展し「安宅一乱」が勃発したのである。『安宅一乱記』はこの模様を書いたものに他ならない。
 一乱は、結局叔父定俊が敗れ安定が安宅氏の家督を継いだが、時あたかも戦国時代の大詰めを迎えんとする頃にあり、この乱における兵力の消耗によって、安宅氏は檜舞台に立つことは叶わなかった。こうして、安宅氏嫡流は、二百年にわたって隆盛を極めてきたが、安定の時代でその勢力に衰えをみせることになった。その後も、かろうじて激変する時代の荒波のなかで、家名を維持したが、ふたたび大勢力を取り戻すことはできなかった。
 『一乱記』所収系図の注記によれば、三好氏に属して活躍した冬康は実俊の子で安定の弟にあたり、一度三好氏の養子となり、のちに安宅に復したものという。

●付 記
…………
阿波の安宅氏は、古城記勝浦郡分に「安宅殿。藤原氏、鎧の丸、田野浦村住居」とみえる。
また、正平の頃、安宅備後守がみえ、同十七年十二月の文書に「阿波国南方の関所並びに
本所領を以って勲功の賞となして宛て行う所なり」とある。
小田原後北條氏の家臣に安宅七郎次郎がおり、『小田原役帳』には、武蔵国山野下村を領
した ことが記されている。



■参考略系図


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