出雲の豪族であった朝山氏は、藤原不比等の孫の真楯の曾孫大伴河内守政持とされる。政持は承和三年(836)に検非違使庁看督長として下向し、出雲国神門郡朝山郷姉山に居住した。それより朝山と号し、出雲朝山氏の祖になったという。しかし、これはおそらく、中央の権勢家を出自とする付会とみるべきであろう。すなわち、建長元年(1249)の「出雲国杵築社造営所注進書」には「朝山右衛門尉勝部昌綱」とみえ、朝山氏の本姓は「勝部」であったとみられるからである。 勝部氏は古代以来の出雲の土着勢力であった。朝山氏は系図上の伝承はともかく、古代出雲の土着氏族であった勝部氏に出自をもつとみるのが自然だ。しかし、朝山氏の祖といわれる政持は「大伴」を名乗り、南北朝・室町時代の朝山師綱は「勝部」あるいは「大伴」を姓とすることもあるので、大伴氏の流れをくんでいた可能性も高い。「朝山」は「浅山」と記されることもある。 元弘三年(1333)、後醍醐天皇が隠岐を脱出して名和長年に奉じられて船上山に拠った。そのとき浅山二郎が八百余騎をもって馳せ参じている。足利尊氏の離反後も、後醍醐天皇方に参じて、山陽筋の反乱を抑えるために朝山備後守は、後醍醐天皇方の備後国守護となっていたようである。ところが、弟の二郎左衛門尉は足利方に属して、足利方の備後国守護であったようだ。これは、建武二年足利方から軍勢催促を受けたが、兄の嘉住が後醍醐天皇をはばかって、代わりに弟を差しのぼらせたのだという。つまり、兄は尊氏方につかず、弟の景連のみが参陣したようだ。 以後、景連は備後国守護として、建武四年、丹波国凶徒誅伐に仁木伊賀守と発向、軍忠を尽くしている。同年十月には、伊予国凶徒誅伐のために備後国地頭御家人を促して発向するように命じられている。さらに、建武五年には、足利直義より、備後国守護代が安芸国に発向して軍忠を尽くした旨の感状を受けている。その後、朝山景連は本国出雲国に帰住したらしく、出雲国内での活動がみられる。塩冶高貞誅伐に際しても景連が軍勢催促を行っている。以降朝山氏は代々奉公衆として将軍に仕えていたようだ。 さて、戦国動乱期の朝山氏は、出雲国を中心に勢力を張った尼子氏のもとに入ったとみられる。貞昌のときに池平山城かあ芦山城に移住し城主となった。のち養子利綱・綱忠・貞綱が城を継ぎ尼子氏に属した。大永三年(1523)、出雲大社三月会祭礼について尼子経久に報告した利綱の文書が残されている。永禄五年(1562)、毛利氏の出雲侵攻により貞綱は戦死し朝山氏は断絶。のち親族の慶綱を立てて再興、それ以後はもっぱら沙太神社神主として存続した。 ■参考略系図 |