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青山氏
無字銭/葉菊
(藤原北家花山院流)


 青山氏は、寛政重修諸家譜に「花山院堀川師賢(後醍醐天皇の忠臣)の子 信賢、その子 師資、其の嗣 師重、初めて青山と称す」とある。その後裔忠門のとき、近江国から三河国へ移り三河国額田郡百々村の城主となった。その忠門が松平広忠・徳川家に仕え、その子忠成は秀忠の守役を務めて徳川氏の創業に貢献した。
 青山家は「葉菊」を定紋とした。南北朝時代、祖先が南朝に与して功があり、日月、菊紋の錦の御旗を賜ったという。そのとき、楠木家の旗紋もまた菊花であったことから、これと区別するために両葉を加えた。以後代々、家紋としたとされている。とはいえ、南北朝を扱った『太平記』や『梅松論』などに、日月の錦旗は活躍しても、菊文の錦旗というのはみえない。青山氏の葉菊紋のいわれも、そのままには受け取れないところが少なからずあるようだ。
 忠成は早くから家康に近仕し、二十一歳の時に父忠門の後を継いだ。天正十三年、秀忠の傳となり、秀忠十一歳の時に上洛した際、随従して秀吉から従五位下常陸介に叙任された。関東入府後は武蔵国に五千石を受けている。慶長五年、関ヶ原の戦いには秀忠に従軍して遅参したものの、同年十一月には播磨守となり、翌年には上総国と下総国に併せて一万五千石を賜った。さらに江戸奉行・関東総奉行を兼任し、本多正信・内藤清成と並んで幕政に重きをなした。
 秀忠治政のとき、仁の酒井雅楽頭、智の土井大炊頭とならんで勇の青山伯耆守として将軍秀忠を輔け、武蔵岩槻四万五千石を領した。しかし、元和九年(1623)忠俊は、三代将軍家光の勘気にふれ、領地は収公された。忠俊がなぜ勘気にふれたのか、その理由についての明確なものは記録として残っていない。
 もっとも考えられるのは、当時の秀忠・家光の二元政治にその因を求められないか。すなわち、忠俊は秀忠から信頼の厚い側近であり、家光の若手側近グループからすれば、最初に排除されなければならない存在であった。また忠俊は、家光の補導役として強諌直言のこともあった。これらの結果、古い政治家となった忠俊は舞台から去らざるを得なかったのではないか。
 寛永九年、秀忠が死ぬと、忠俊も自ら剃髪してかねて大徳寺の宗珀和尚から与えられていた法号道称を用いて、春室宗信と名乗った。しかし、秀忠の死は二元政治の終焉を意味し、同年江戸より「赦免」の手紙が届いた。これは、勘気が家光の個人的なものではなく、当時の政治状況によって起きたものであることを背面から語っているものだ。つまり、家光は忠俊の忠誠をわかっていながら、自己の権力の教化のためには秀忠派の忠俊を切り捨てざるを得なかったということだろう。
 こうして、嫡子の宗俊は大名に返り咲き、その後青山家の家運は営々と栄え、その嫡流の多くが幕閣の重職についた。 


■参考略系図
    



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