武蔵七党丹党の一族。『武蔵七党系図』によれば、宣化天皇の曾孫多治比古王が臣籍に降り、その子孫が武蔵国に移って秩父郡・賀美郡を領し、子孫が丹党として栄えたと伝えるが、この所伝には疑わしいところがあり、丹党を宣化天皇の子孫とは定めがたい。 ただ、丹比氏と信じられた一族が賀美郡を中心とする地域に広がり、平安時代末期には武士団を形成していて丹党と呼ばれたことは認められる。 青木氏は前記の系図によれば丹党の勅旨河原直兼の子直時から始まる家と、新里恒房の子実直から始まる家とがある。実直は入間郡青木の地を領して青木丹五と称した。源頼朝に仕えて軍功をあらわし、『吾妻鏡』の建久元年(1190)十一月七日条に、源頼朝上京中の随兵として記さている。建武二年、駿河において新田義貞の部下として奮闘した青木五郎左衛門尉、同七郎左衛門尉はその子孫と思われる。 戦国時代、さきの青木氏の子孫を称した青木氏が出ている。実直の子孫が美濃に移ったものの後裔という青木重直は、土岐頼芸・斎藤道三・織田信長に仕え、豊臣秀吉のとき、摂津国豊島郡・兎原郡で千七百六十石余を領した。その子一重は、今川氏・徳川家康・豊臣秀吉に仕え、豊島郡や伊予・備中などであわせて一万石を領した。 秀頼のとき、大阪冬の陣の和議謝礼使となり、駿府に使したが、その帰途京都で拘留され、大阪落城で剃髪し宗佐と号した。同年家康から一万石を与えられ、初代の摂津麻田藩主となった。 ■参考略系図 東京大学史料編纂所データベース中より、牧野彦太郎氏蔵「青木系図」・大田直敬氏蔵「青木系図」から作成。微妙な共通点をもちながら、代数、人名ともにまったく別の系図というしかない。他方、 利仁流青木氏系図も、似通った内容であり、系図という家伝文書が成立するニュアンスと取り扱いの難しさを感じさせる。 |