鎌倉時代、摂津国の西国御家人に真上氏・溝杭氏等がいたことが知られる。かれらが史料上にその姿をあらわすのは、鎌倉時代も末期の元亨四年(1324)のことである。すなわち、時の六波羅探題北方常葉範貞が真上彦三郎資信に御教書を送り、摂津国垂水庄百姓等が近隣の悪党と語らって庄内で狼藉をはたらいた事件に関して、鎮圧におもむくよう命令を下したものである。さらに、嘉暦元年(1326)翌二年には「溝杭孫三郎と相共に、一国地頭御家人を催し具して、重ねて彼の所におもむき」、事件を鎮圧するように真上彦三郎資信あて六波羅探が御教書発せられている。 この事件で注目されるのは、真上氏・溝杭氏・伊丹氏など西国御家人が六波羅探題北方=摂津守護やその被官守護代によって、国内の「地頭御家人」を統率して幕政を執行することを命じられていることである。これは幕末の畿内において、鎌倉幕府によって任命された地頭職がその独自の政治的権威を失っていたことを物語るものといえよう。加えて、得宗専制化した北条氏が畿内においては、本来の地頭御家人=東国御家人ではなく、むしろ有力な西国御家人をいわば被官化することによって、自らの支配権力を維持しなければならなくなっていたことをも示している。 やがて、元弘の乱・鎌倉幕府滅亡という政治的大事件に際して、真上氏は元弘三年(1333)五月、足利高氏を大将とする討幕軍が六波羅探題を攻撃したとき、探題北条仲時にしたがって奮戦した。敗れた六波羅勢が光厳天皇を奉じて近江に落ちのびた時もこれに同道し、近江国番場宿において仲時以下六波羅勢三百三十人余が自害して果てた際にもこれに殉じて果てたことが知られる。 芥川氏の勢力拡張 真上宗家が北条氏と運命をともにした後、庶子家がその跡を継いだものと推定される。そして、姻戚関係を通して芥川氏と結び付き、芥川真上氏を名乗って芥川氏の中枢を占めるに至った。 ところで、真上氏と同様に西国御家人であった芥川氏が史料上にあらわれるのは、弘安七年(1284)である。すなわち大和西大寺の僧叡尊は葉室中納言定嗣のもとめに応じて法要を営み、六波羅探題をおとずれて当時の北方北条時村と会談し、さらに摂津国島上郡芥川の地蔵院において説法を行った。このように叡尊が芥川で独自な宗教活動を行ったことが機縁となって、のちに叡尊が宇治橋再建計画にとりかかった折に、芥川右馬允平影信なる人物が叡尊を戒師として剃髪出家し、以後、慈願と名乗って叡尊と同行するに至った。 この芥川影信は、鎌倉末期に活躍する西国御家人芥川孫三郎六郎左衛門尉信時の父にあたる人物と考えられ、叡尊が説法を行った地蔵堂は芥川氏の菩提寺と推定される。また名乗りに平を冠しているところから平氏の後裔にあたるものと思われるが、その詳しい系譜は定かではない。 鎌倉末期の延慶二年(1309)、東寺領摂津国垂水庄の下司在京御家人日下部氏女は庄内で有力百姓を組織し、庄外では摂津国御家人芥川・土室・尺迦王らの協力を得て庄田畠の一円的領有を企て、年貢を自分のふとことに入れて東寺に上納しなくなっていった。これに対して、東寺からの訴訟を受けて六波羅探題は野部介・伊丹入道らを使者として出頭命令を出したが、下司側の人々は誰も出頭しなかった。そこで、六波羅探題としては非は日下部氏女・芥川氏・土室氏らの側にあるとして、その非法行為をやめ取りこんだ年貢を東寺側に納入することを命じるとともに、狼藉については別に処置をとるであろうことを付記した六波羅下知状を発するに至った。 しかし、鎌倉末期においては六波羅探題の政治的権威は、かれら西国御家人を命令通りに動かす威力はもっていなかった。東寺側は庄内の反下司派の百姓や近隣の「悪党」を使って、下司代を実力で庄内から追放し、鎌倉幕府滅亡とともに建武政権の援助によってその直接支配を実現することに成功している。 この鎌倉末から南北朝期における東寺領垂水庄の紛争において、芥川氏一族は一貫して下司日下部氏女を支援することを通して、庄内外の悪党的百姓のうごきを鎮圧していった。さらに、東寺の一旦実現された直接支配をも打ち破って、あわよくば一円領主権を確立すべく策動しつづけた。 かくして、芥川氏は次第にその政治的勢力を拡大し、北摂の有力御家人であった真上氏の宗家が六波羅探題と運命をともにして滅亡した後、芥川信時が建武政権によって旧領を安堵された真上庶子家政資が自分の外孫であるという関係を媒介として、その弟で同じく自分の外孫でもある信貞を自らの猶子として芥川氏を継がせた。 摂津争乱と芥川氏 南北朝期の芥川氏は、真上氏の系譜を吸収することによって、真上氏が北摂一帯に及ぼしていた政治的影響力を継承するとともに、芥川宿を本拠とするという非開発領主型の武士から、本来の開発領主としての伝統をもった有力武士として近隣の武士たちにのぞもうとしたのである。そして、真上氏から入った芥川信貞とその兄である芥川真上政資の両家がそれぞれ独自な役割を果たす=二頭体制をつくることによって、北摂武士を統率しうる社会的力量を築き上げたのであった。 以後、芥川氏は信貞を中心に一族あげて近隣在郷に進出し、その下地を押領することによって所領を拡大していった。一方、政治的な面では芥川真上政資が足利幕府の直参の御家人として幕府の摂津国使節となって活躍した。 観応三年(1352)、政資はその所領を嫡子虎才丸に譲るとともに、実弟信貞にたのんで、虎才丸の所領を近隣の国人衆の力で守ってもらうために国人一揆契状を作製してもらった。契状には十八名の国人が連署し、当時、芥川氏が組織していた国人一揆のメンバーがうかがわれる。こうして、芥川氏を中心とする国人一揆を組織することにより、芥川氏は北摂の政治的勢力の紐帯の位置を占める芥川宿にあった屋敷=城を徐々に拡張し、やがて芥川城としての規模を整え、近隣の国人層のみならず、守護・守護代クラスの武士層のための社交場として位置づけていった。 日本のほとんど全域を百年にわたって戦乱に巻き込んだ戦国時代は、応仁元年(1467)に勃発した「応仁の乱」に始まるとされる。東軍の細川勝元は、花の御所を守衛するとして、家臣薬師寺兄弟に摂津武士の一部を割いて加勢させ、芥川氏は三宅・吹田・茨木氏ら摂津武士とともに花の御所の北に配置され、西軍の攻撃に備えた。そして、合戦が開始されると、摂津衆らの猛攻によって山名方が崩れ、戦いは東軍優勢のうちに続き、京都は大きな被害を蒙った。 その後も戦は続き、摂津の武士らは東軍に、あるいは西軍にとその去就は分裂し、動揺を繰り返した。そして、この間に摂津武士として最上位の地位と実力を持っていた芥川氏がその命脈を断たれたと思われるのである。すなわち、以後芥川氏が諸合戦に参加した記事はあらわれないし、芥川城での攻防も展開されていないのである。 戦国時代と芥川孫十郎 摂津芥川氏がふたたび歴史に名をあらわすのは、天文八年(1539)細川晴元が幕府政所執事伊勢貞孝のもとに出仕した時、お供として随侍したのは三好孫二郎(のちの長慶)・長塩と芥川であった。この芥川氏は晴元配下の摂津国内四武将のひとり芥川豊後守と想定される。とはいえ、鎌倉時代から活躍を続けてきた芥川氏は、すでにその宗家は絶え、芥川一族が衰退に向かっていたなかで、それを再興したかのように見える芥川豊後守の素性は一切明かではない。 天文十年、河内の武士木沢長政は三好長慶・政長を除こうとして細川晴元と敵対した。晴元は木沢討伐のため芥川城に進駐し、長政は翌年河内大平寺で戦って敗死した。その後も摂河泉地域の有力武士の分裂の激化は続き、政情は安定を見せることはなかった。そのようななかにあって、三好長慶が頭角をあらわしてくる。 天文十五年、三好氏の軍勢が四国から続々と堺に到着した。そして、翌年から三好長慶・細川氏綱・遊佐長教らの軍は、摂津国内の細川晴元の拠点を攻撃しはじめた。芥川城攻撃が始まると、晴元も出陣してきたが、入城して指揮をとるというものではなかったようだ。城主薬師寺与一は力尽き、三好の軍門に降った。このときの芥川城攻撃軍のなかに三好長慶の縁者芥川孫十郎がいた。そして、開城された芥川城に、芥川城が本領であるという理由で芥川孫十郎が入った。 この孫十郎は芥川長光の子息であった。長光は三好之長の子息であり芥川城に入って、現地の有力武士である芥川氏と縁戚関係を結び、芥川氏を名乗ることによって、現地支配をつなぎとめようとしていたと想像される。しかし、永正十七年(1520)五月、三好之長らは細川高国勢と戦って敗れ、之長、子息である芥川長光・三好長則らは斬首されたのである。孫十郎が芥川を本領の地という理由はここにあったのである。 天文十六年、父ゆかりの地を回復して得意のなかにあった芥川孫十郎は、同十八年伊丹城攻撃に参加したらしい。さらに同年晴元方の香西元成が三宅城から打って出たときには、芥川城にいた三好長縁がこれに立ち向かい、総持寺の西川原で戦って香西方を打ち破った。この間、孫十郎は芥川城にあって一定の地位と軍事力を擁していたようだ。 |
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