秋保氏は平清盛の長男で小松内大臣重盛の子孫といわれる。秋保地方に伝わる落人伝説の一つとして、平重盛の重臣であった平貞能は壇の浦で平家が滅亡してのち、肥前国長崎に陰棲していた。ところが、重盛子孫の基盛が奥州名取郡秋保郷長袋のうち戸崎で二万石の城主として取り立てられていることを知り、僧の姿となって基盛に会いにいき、長袋の並木に屋敷をもらい三年を過ごし、のちに大倉に移りその地で死去したという。 あるいは、長崎に潜んだのは平長基や平盛綱で、また、長基の子基盛の代に長袋から館山あるいは新川に移ったとする伝承もある。いずれにしても秋保氏の場合、秋保に初めて土着したのは長基・基盛・盛綱の三人に象徴されているようだ。 秋保氏の出自、諸説 秋保氏の系図は数種類のものが伝わり、そのほとんどが平清盛の嫡男重盛あるいは、その子の資盛を祖としていて、重盛から資元までの三代が共通している。また、ある系図では資元は肥前国長崎に住んで長崎左衛門尉と称したとある。さらに、基盛は鎌倉時代後期の人物とされ、鎌倉前期におけるものと思われる基盛の伝承と食い違いをみせているものもある。 他方、「系図纂要」に収められた桓武平氏城氏の系図に、秋保氏がみえている。こちらは、鎌倉時代はじめに叛乱を起した越後城氏の一族ということになり、蒲原郡に住していたが、のちに奥州名取郡に移り基盛が秋保氏を称したとある。 さて、基盛が生きたとされる鎌倉時代後期は、執権北条氏の内管領である長崎氏が権勢を振るった時代であった。長崎氏の祖といわれる平盛綱は資盛の子とされ、秋保氏もまた資盛を祖とし、その子という資元は長崎左衛門尉を称した。そして、別の伝承には平盛綱が秋保に土着するというものもある。さらに、宝治元年(1247)の三浦氏の乱で三浦一族が滅亡したのち、名取郡は執権北条氏の所領となり、領内には御内人と呼ばれる北条氏の被官が地頭代に任命されたといわれる。秋保の地も御内人の筆頭である長崎氏が地頭代となった可能性はかなり高いものと思われる。これらのことから、秋保氏は長崎氏の一族と考えられ、系図や伝承などに語られる秋保氏のこともそれを様々な形で語ったものと理解される。 秋保氏は最初、長崎あるいは小松と名乗ってきたが、秋保を名字とするようになるのは俊盛・盛定・重盛のころで、いずれも南北朝時代の人物であり、秋保の地頭代として土着してから二〜三代のうちに地名をとって秋保を名字にしたものと考えられるのである。 中世の武将の出自を探るほど困難なものはなく、またそれぞれに伝えられた家系図なども異同が少なくなく、秋保氏にしても桓武平氏の子孫を称する武家が戦国末期にいたということでいいのであろう。 秋保氏の勢力伸張 秋保氏は南北朝時代から室町時代にかけて、長袋を拠点として発展したものと思われる。基盛が最初に構えた城といわれる楯山城も長袋にあり、遠くからでもすぐにそれとわかる象徴的な山城で、頂上に立てば秋保郷を眼下に望むことができる。まさに天険の要害であり、支配の拠点にふさわしい立地にある。とはいえ、日常の生活は楯山城から名取川をはさんだ北側の台地にある長楯城であったと思われ、秋保氏の本家の代々はここに住んだものと思われる。そして、戦国時代に至るまで軍事拠点として楯山城と一体となった支配網を構築していたと考えられる。 戦国時代になると、秋保氏は分家を創出したことが系図から知られる。剛勇の士として知られた盛房は天文二十年(1551)に死去したとされるが、その弟盛義は馬場村に居住して上館城を設け、盛義の孫定重は豊後楯城を構えた。また、盛房の次男盛久は境野氏、三男盛頼は竹内氏を称した。分出した一族の館は交通の要地にあり、互いに連係して秋保を守っていたものと思われるが、やがて、盛房のあとを継いだ伊勢守則盛のとき伊達氏に服属した。 ところで、秋保本家を中心とした諸家の分立と城館の構築は、独立した領主としての秋保氏の発展に伴ったものではなく、秋保氏を支配下においた伊達氏の意向によるものと考えられる。すなわち、伊達氏と対立する出羽の最上氏との緊張関係のなかで整備されたものと思われるのである。実際、伊達政宗と最上義光が対立したとき、秋保氏の城館群が最上氏の進出に対して一定の機能を果たしたことはよく知られている。 長江月鑑斎の謀殺 戦国時代の末期、秋保氏は伊達政宗に反抗した黒川月舟斎と長江月鑑斎を預けられた。黒川月舟は境野城に、長江月鑑は豊後楯城に預かった。そして、伊達氏から秋保氏に対して月鑑斎を切腹さすべし、という命令がもたらされた。 長江月鑑斎は老齢ながら歴戦の勇将として知られた人物であった。豊後楯城の摂津守定重・長門頼重父子は一計を案じて、ついに月鑑斎を討ち取った。長江月鑑斎を討ち取ったことで、秋保の武名は大いにあがり、家格も一家のうちの右上席となった。しかし、事件から十二年後に秋保氏は所替を命じられ、刈田郡円田村北境に移動し、秋保の馬場村は伊達家の蔵入地となった。 ところが、円田へ移った秋保氏には不思議と災が続くようになった。そのため「月りん様」を祀ったらその災の根が切れたという。いまでも毎年七月十九日には「月りん祭」を行っているといわれる。「月りん」とは「月霊」と書き、「月鑑斎の霊」であることはいうまでもない。 【参考資料:仙台市史 など】 ■参考略系図 |