赤川氏は、小早川茂平の子忠茂を祖とし、政忠の代より信濃国赤川村に住して在名を称したことに始まる。忠政の代に毛利時親に従って安芸に下向し、代々譜代家臣として重きをなした。 房信の次男に誕生した就秀は、兄元光が討死したため家督を相続し、大永三年(1523)、元就に家督相続を要請した宿老十五名の一人でもあった。その後、尼子氏のもとに人質として派遣され、尼子氏本城の富田城に滞在していたが、元就が尼子氏と絶縁すると、元就の密命を受けて密かに城を脱出し、吉田に無事帰還した。このため、毛利氏の尼子攻めの時は案内役を務めた。 就秀の跡は嫡子・元秀が相続した。元秀は、天文十年の郡山籠城戦をはじめ、同十二年の出雲攻め、同二十四年安芸矢野城の合戦などで戦功を挙げ、元就より感状を得た。また、永禄十一年(1568)の豊・筑攻めでは陣奉行を命じられ。元亀三年の毛利氏掟では年寄衆の一人としてこれを確認している。天正八年(1580)頃は備後福山城を守備して、四百貫の給地宛行を輝元より約束された。 赤川房信四男が元保で、就秀の弟である。兄と並んで、大永三年(1523)、元就に家督相続を要請した宿老十五名の一人。天文十九年(1550)、当主隆元の下に毛利氏全体の運営にあたる五奉行体制が確立すると、その筆頭となった。隆元に直属する奉行人として手腕を発揮したが、元就系の奉行人と対立し、その専横ぶりは元就のみならず隆元をも苦慮させた。こうしたなかで、永禄六年(1563)八月、出雲遠征中の隆元が和智誠春の響応をうけた直後に急死すると、その責任を追及され、同十年、元就の命令によって自刃し、養子又三郎や弟元久らも誅伐された。 その後、元保は隆元に対し和智誠春の響応に行くことを再三意見して止めていたことが判明し、元就は就秀の次男元通に跡を継がせて赤川元保の家を再興させた。 ■参考略系図 |