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赤埴氏
三つ鱗
(三輪姓大神氏流)


 中世、大和国宇陀郡の一角に興福寺大乗院門跡領に含まれた赤埴荘があった。赤埴荘の荘園下司には在地土豪の赤埴氏が任じられていた。赤埴氏は系図によれば、三輪神社の神官を務める古代豪族大神氏の一族で、宇陀郡大領をつとめた大神宿禰赤埴安足の後裔と伝えている。
 『奈良縣宇陀郡史料』には、赤埴長助赤埴家記によって「氏は本姓大神にして大物主神の後大神君大友主より出ず、上古大国主神嫡后須勢理姫と共に宇陀の室生岩窟に入り五百引の石を以って之を塞ぎ赤土を以って其口を塗る、赤埴の称ここに起り其岩窟は即ち今の室生龍穴社なりと云う」と記し、文武天皇の御宇(696〜707)に大友主の後裔大神安是が宇陀郡大領となり子孫相継いだという。その後の貞観年中(859〜877)、源融が宇陀郡の領主となると、赤埴安則が下司職に任じられたと伝えている。

赤埴氏の興亡

 源平時代になると、宇陀の地は源頼政が領する所となり、頼政に仕えた盛安は治承四年(1180)の宇治川の合戦において戦死した。以後、鎌倉時代における赤埴氏の動向は知れないが、元弘の変(1331〜33)が起ると盛安四世の孫安証は護良親王に従って十津川において戦死している。その功により、安頼(子あるいは弟)は後醍醐天皇に仕え、赤埴山に城を築き、伊勢の北畠氏に通じて南朝方として活動した。
 中世、宇陀郡には秋山・沢・芳野の「宇陀三人衆」とよばれる実力者が割拠し、赤埴氏は三人衆に次ぐ「宇陀七人衆」の一人であった。宇陀郡は伊勢国司北畠氏の影響を受け、宇陀郡の諸士は南北朝時代には南朝方として活躍した。赤埴氏も北畠氏に仕える一方で、宇陀三人衆の一人である沢氏に属し、郡内各地に勢力を伸ばしていった。
 明応六年(1497)、赤埴範安が桃俣を領する三田氏を継ぎ東宇陀に進出、ついで享禄年間(1528〜32)、満近は諸木野氏と合戦を行なうなど小勢力ながら動乱の時代を生き抜いた。信安の代の天正四年(1576)、北畠氏が滅亡すると筒井順慶に従った。天正十二年、順慶が死去すると筒井氏は伊賀国に移封され、大和は豊臣秀長が支配するところとなった。宇陀郡は福島正則の弟・福島掃部頭孝治が与えられ、孝治が松山城に入ってくると、信安の嫡男安忠は松山城に出仕した。しかし、のちに赤埴に帰って医術を修め、赤埴流金瘡外医の元祖となった。
 ところで、赤穂浪士の一人として知られる赤埴源蔵重賢は「鱗内星(右図)」を家紋に用いていた。赤埴という珍しい名字と、赤埴氏と同じく「鱗」を家紋としていることから源蔵は宇陀赤埴氏の一族と思われるが確証はない。・2007年08月30日

参考資料:奈良縣宇陀郡史料 ほか】






■参考略系図
・奈良縣宇陀郡史料所収系図から
    


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