ヘッダイメージ



愛洲氏
割菱*
(清和源氏武田氏流)
*不詳。武田氏流の代表紋として参考掲載。


 愛洲氏の祖については、甲斐の武田清光の孫忠頼説、あるいは玄孫の孫政隆説、六代の孫の忠俊とする説などがある。また名字の地については、紀伊国東牟婁郡愛須説と伊勢説とがあるが、愛洲氏は諸書に愛須・相須・会州・愛曽等と記されている。おそらく、十津川と北山川の出合いに近い地点にある相須という集落が、愛洲氏発祥の地であろうとされている。

紀州に地盤を築く

 愛洲氏の系図は各種伝わっているが、いずれも確証のあるものではない。また、世系も定かではないのである。伝わる系図によれば、貞光は鎌倉将軍頼嗣の命により、寛元二年(1244)後嵯峨天皇を隠岐国において守護し、同国で病死したという。その子が信俊のようで、父に従って隠岐に渡り、佐々木氏との戦いで功があり、紀州高田を賜わったという。それを裏付ける関係文書は伝わっていないが、延元三年(1338)の後醍醐天皇の綸旨に、紀州高田が愛洲憲俊に安堵されていることから、信俊以降代々相伝されたのであろう。
 信俊のあとの経信は、鎌倉将軍の命で記録所に勤めていたが、宝治元年(1247)の宝治の乱で、三浦氏一族が北条氏に滅ぼされたことに反論して、職を辞して紀州南部の館に帰り、晩年三栖の衣笠城に移転したという。このころ、愛洲氏は秋津庄・三栖庄の地頭であり、南部庄の地頭でもあった。当時、南部庄には地頭として佐原氏がおり、愛洲氏は佐原氏と併立していたものであろう。
 次の俊秀は、蒙古が襲来した「弘安の役」において幕府の命により、博多の八角田に出陣、そのときの軍功により、阿波国秋月庄の地頭職に補任されている。俊秀は系図に「大力無双」と書かれており、愛洲水軍を率いて蒙古軍の船に攻め寄せ、強弓を引いたものであろう。弘安の役の行賞に際しては、幕府は二十六年を経ても完了することができず、結局は打ち切りにした。このような状況のなかで、秋月庄を賜わった愛洲氏の功績は、かなり目だったものであったのだろう。
 ちなみに、この幕府の恩賞の遅滞に対して、弘安の役での自身の活躍を絵巻にして、その功を幕府に申し立てたのが、肥後の武士竹崎季長であった。そして、その絵巻が『蒙古襲来絵詞』で、いまに蒙古襲来の様子を伝える貴重な史料となっている。鎌倉幕府は蒙古襲来という未曾有の危機を脱することはできたが、その後の論功行賞において役で活躍した武士たちを満足させることができず、ついには、武士たちの鎌倉幕府に対する信頼を失墜させることとなったのである。

動乱の時代を生きる

 このようなときに、後醍醐天皇の倒幕計画が顕在化するのである。そして、元弘元年(1331)八月、天皇は京都を脱出して笠置寺に移った。九月、幕府軍は、後醍醐天皇が拠る笠置行宮を攻撃、笠置寺は炎上陥落し、天皇は宇治で幕府軍に捕えられ、翌年。隠岐に流刑となったのである。このとき、後醍醐天皇に心を寄せる河内の悪党楠木正成は、赤坂城に拠り幕府軍に反旗を翻した。このとき、南部の愛洲憲俊とその子能俊は、大塔宮・正成らとともに赤坂城に篭城してともに戦った。しかし、幕府の大軍の前に城は落ち、大塔宮は紀州へ、楠木正成はいずこかへ姿をくらまし、愛洲父子は南部に落ちていった。
 以後、愛洲氏は南朝方の忠臣として活躍し、後醍醐・後村上両天皇の綸旨が、いまも熊野愛洲氏の家に伝わっているという。
 やがて、南北両朝の合一がなり、愛洲氏は衣笠城を居城として紀州の一角に勢力を維持していたようだ。当時の紀伊守護は畠山氏であったが、家督相続争いが起こり、やがて合戦にまで発展する。すなわち、畠山基国の実子義就と養子政長が戦ったのである。この争いに、愛洲氏も巻き込まれ、義就を指示した愛洲氏は、政長を指示する日置の久木城主小山政長に攻められた。
 そして、畠山氏の守護職をめぐる争いは以後も続いた。それが、応仁の乱の引き鉄となり、時代は戦国へと移っていくのである。愛洲氏は衣笠城に拠って戦国乱世に身を置いたが、戦国大名となるまでには至らなかったようだ。系図によれば、戦国末期の愛洲武兵衛直俊は、大坂の陣において、大坂方の武将塙団右衛門が徳川方と戦った「樫井の合戦」で討死したと伝えている。
 鎌倉時代より南北朝そして戦国時代に至るまで、紀州の一角で勢力を培った熊野愛洲氏ではあったが、結局、武士を捨て帰農した。

参考資料:南部町史 ほか】


■参考略系図
和歌山県立図書館蔵の系図を底本として、各種系図を併せて作成したもの。時代などにいささかの疑問があるが参考として掲載。
  


バック 戦国大名探究 出自事典 地方別武将家 大名一覧