千葉一族。「あいはら」「あいばら」とよむ。粟飯原氏には二流があって、ひとつは千葉氏の祖・平良文の兄である平良兼の次男・盛家と三男・良定がともに粟飯原郷を領して粟飯原を称した。もう一流は、良文の後裔平常長の四男・粟飯原常基が「粟飯原孫平」を称したともされる。のちにこの二流はひとつになった。 すなわち、常基の子有胤に子がなく、粟飯原盛家の6代目の孫朝秀が継いでいるのである。しかし、粟飯原氏は、建暦三年(1213)5月の「和田合戦」によって朝秀と三人の子がとともに殺されるといったんは滅亡した。ところが、朝秀の嫡孫・粟飯原胤秀は逃れて千葉介成胤に保護され、成胤の弟・寛秀(孫三郎)に仕えて粟飯原氏を再興する。その後、寛秀が粟飯原氏嫡流を継承し、その子・常行は千田庄内にも所領を受けた。 常行の曾孫・常光には子がおらず、千葉介貞胤の弟・氏光があとを継いだ。氏光ははじめ鎌倉幕府最後の将軍・守邦親王に仕えて「下総守」に任官。その後は貞胤と行動をともにし、貞胤が尊氏にくだるとともに降伏。こののち粟飯原氏は足利方の武将として活躍した。 氏光の嫡男・粟飯原清胤(下総守入道道最)は足利尊氏から千葉介氏胤の後見を託され、貞和元年(1345)8月の天龍寺供養には、千葉介氏胤・東常顕ら千葉氏一族ともに供奉している。そして同3年から2年間、幕府政所執事に抜擢されて幕府の中枢を担った。しかし、正平八(1353)年6月、南朝の山名時氏・楠木正儀らの軍勢と京都で戦い、足利義詮とともに出陣して奮戦ののち戦死した。 清胤の弟・基胤は鎌倉公方・足利基氏に仕えて「基」字の偏諱を受ける。暦応三年(1340)には幕府奉行人に列した。基胤は武蔵国で起こった新田義宗・脇屋義治の乱の追討に出陣し、笛吹峠に迎え撃って大功をあげる。 清胤の嫡男・粟飯原詮胤(彈正左衛門尉)は足利義詮から偏諱を受けていると思われ、貞治四年に千葉宗家の家督を継いだ千葉介満胤の後見人となり、千葉氏の代表として幕府に出仕している。詮胤の弟・常善は応永五年(1398)、幕府から下総国大戸庄を安堵され、応永23年(1416)の「上杉禅秀の乱」では満胤の軍中にあって幕府軍と戦った。 戦国期の粟飯原氏 これ以降、粟飯原氏の大きな活躍は見られなくなるが、詮胤のあと系譜上、粟飯原氏は二流に分かれている。一流は満胤―教胤―政胤―尚胤といった具合に、将軍家からの偏諱を受けたと思われる名乗を持っており、幕府の奉公衆に列したものと思われる。詮胤の次男・胤長は「下総守」に任じられ、こちらが千葉氏の重臣となった。 下総国に残った粟飯原氏は、本拠地・下総国香取郡小見川の領主として大きな勢力を持ち、また、千葉介の重臣としても活躍した。足利義詮に仕えた粟飯原詮胤の七代目・粟飯原胤次は千葉宗家重臣として、妙見社遷宮の祭礼に出席している。 しかし、彼の子・粟飯原常次は父といさかいを起こし、相模国に出奔してしまった。胤次はやむをえず天文16年(1547)、北条氏康の九男光胤を養子に迎えたという。しかしその後、常次が胤次に謝罪したため、光胤は自ら相模国へ戻っていくが、常次は光胤を呼び戻して養子に迎え、のち家督を譲った。 光胤は千葉介胤富の重臣として活躍していたが、天正16年(1588)、急病に倒れた光胤は千葉介邦胤の次男・俊胤を養子に迎えて家督を譲り、5月5日に病死した。俊胤は「粟飯原孫平」を称し、小見川城から東庄森山城に移る。そして天正19年(1590)の小田原の戦いでは、兄・千葉重胤とともに小田原城に人質として入り、千葉氏の滅亡とともに城を追われて滅んだ。 ・見聞諸家紋に見える粟飯原氏の「三本竹」紋 ■千葉一族 ■参考略系図 |