武蔵七党小野姓猪股党の一支族。『武蔵七党系図』によれば、猪股忠兼の子忠綱が岡部六大夫を称してより始まるという。すなわち、武蔵国榛沢郡岡部の地を領して、家名とした。 忠綱の孫六弥太忠澄は、平治の乱には源義朝に従い奮戦している。のちに源頼朝の旗揚げに従い、平家追討戦では一の谷合戦で平忠度を討つ功を挙げて名を知られている。戦後、恩賞として伊勢国粥安富名を与えられた。忠澄は文治五年の奥州征伐にも参加している。 子孫はのちに足利尊氏に仕え、足利基氏以来鎌倉公方の配下にあった。景澄は足利持氏とともに自殺し、その孫の憲澄は足利成氏に仕えたという。 憲澄より四代後の忠秀、その子忠吉、孫吉正は小田原北条氏の老臣松田康秀に仕えた。小田原征伐ののち、松田康秀の死に際して吉正は忠志を顕わしたと伝える。その後は、高野山に匿れた。 文禄二年(1593)、徳川家康に召し出されて、徳川氏に仕えた。そして、関ヶ原合戦・大坂の役などで戦功を積んで、のちに千五百石の知行を与えられた。吉正の弟忠房・正次も徳川氏に仕え、それぞれ旗本家として続いた。 ■参考略系図 |