一色氏は清和源氏、足利氏の一族である。足利頼氏の兄弟に公深がおり、これが一色氏の祖となった。一色範氏は初代の九州探題となり、九州の南朝方と戦った。しかも、九州武家方の反抗にも対処するなど、足利方として九州で苦闘した。 文和二年二月、菊池武光と少弐頼尚の連合軍と筑前針摺原で戦い大敗。結果、大友・宇都宮・草野等の諸将も南朝方に降り、さらに苦戦を強いられるなかにあってその後の一年有余にわたって、肥前菩提寺城・筑前千手城・同飯盛山城と連戦した。文和四年、九州南朝方がいっせいに動きだし、範氏・直氏父子ら一色一族は、海路長門に脱出した。ここに一色氏の九州経営は南朝方によって破綻したのである。 翌年上洛、しかし長年九州で武家方として孤軍奮闘した範氏に対して行賞はまったく無かった。しかも、室町幕府の組織も整い、京を離れていた範氏らの入り込む余地はすでになかった。こうして範氏は失意のまま、歴史から消えることになる。 延文元年(1356)、直氏が再び鎮西探題に起用されて九州に下向したが、優勢な菊池勢と筑前麻生山に戦って大敗し、一色氏の家名挽回は果たせなかった。以後、一色氏は衰亡し、のちに直氏の弟範光が若狭守護として家名を興したが嫡流は没落した。 直氏には氏兼と長兼の二子があり、氏兼が丹羽氏の祖になったといわれている。氏兼の孫氏明は、一色詮範が知多・海東の尾張二郡の守護に任じられたことを聞きおよんで、尾張に移住したという。しかし、若干の遠慮があったものか、直接、知多・海東には行かず尾張丹羽郡に拠点を置いたと伝える。 氏明から四代目の丹羽氏従のとき吹上城を築きこれに拠ったらしい。さらにその子氏貞のとき本郷城に移り、その孫氏清は岩崎城を構えたという、尾張の一土豪になったらしい。氏清の子氏職が織田信長に仕えた。氏勝は信長・信雄と仕えて、氏次は信雄失脚後豊臣秀次に仕え、秀次死後、秀吉に仕えるというようにその道は決して平坦なものではなかった。 信雄の勘気を受けた氏次を一時家康が面倒をみたことから家康と関係ができ、関ヶ原の戦いには東軍に加わった。戦後、三河伊保一万石を賜った。子孫は封を継いで各地を転封、寛保二年、播州三草に入って以後明治維新まで同地にあった。 丹羽氏の出自に関しては、一説に良峰姓=桓武天皇の皇子安世王が臣籍降下した家系といわれ、『武功夜話』などもこちらの説を感じさせている。 ■参考略系図 |
●Ver.1 系図
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