待機中01



英保播磨国飾磨郡英保地頭 本姓中原氏/称源頼政後裔

英保助兼━次郎左衛門━弾正━兼盛━━━┓
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┗和泉守━内膳━備前守常政━与次郎常久━小河之直(福岡藩士一万石)

英保(あぼ)氏は宇野(小寺)氏の分流で、始めは江見氏を称した。助兼の時、分家して姫路近郊・英保城の主となり姓とした。また、英保氏の分流神崎氏は総社の神主になってもいる。
 内膳の母は黒田重隆の姉と伝え、黒田家が姫路城主となる過程で英保を退き、印南ノ城主に転じた。別名を伊奈美野城といい、阿弥陀宿という宿場を監視する城であった。小寺家の直接勢力の最東端ともいえる要である。
 常久は秀吉の播磨平定で小寺家と運命をともにして敵対したため、落城後は伊予国へ逃れた。その後、明石左近に仕えて討死したと伝える。 常久の妻(小河氏)は黒田家臣の桐山丹波に再婚し、連れ子にあたる之直は後に黒田家臣の小河伝右衛門(黒田24騎)の跡を継いだ。英保氏の名は消えたが、その血は脈々と受け継がれ黒田家の重臣として明治に至っている。
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井口  井口(いのくち)氏は赤松円心の曽孫・家全に始まる名族とされる。井口という地名は各地にあるが、その本貫地は加古川市の井口、見土呂(みとろ)と呼ばれる所。初代家繁は嘉吉の乱で自刃したが、子孫は代々井口城主の座を保持しつづけたと伝える。だが、美嚢郡古川城主として数代在城したという伝承もあり、井口備前守時重が弘治年間に近くの脇田城主に殺されたともいう。ただし、戦国後期、家繁の代に竜野近辺の栄城主となったのは事実のようである。
 この頃、赤松氏のもとでは領地替えが盛んに行われている。これもその一環であろう。栄城は永禄の頃まで浦上村宗の居城で、同氏が三石に移った後、その家老花房靭負が守っていた。
 家繁は室津浦上氏と婚姻関係を結ぼうとしたが、婚礼の夜に竜野赤松氏の襲撃を受けて娘を亡くし、天文三年には親類の櫛橋尚則と共に近在の朝日山で討死した。孫の繁春の時、秀吉の軍門に下り、武士をやめて大庄屋となって江戸時代を過ごした。
 また、小寺家の庇護のもとに、早くから御着で帰農した井口氏の一族がいる。黒田24騎の一人・村田吉次の親がそれであり、広峰神社の御師となって井口太夫と呼ばれた親類もいると伝える。

井口但馬守家全━帯刀家基・・・・┓
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┗━備前守時重?・・・兵庫介家繁┳茂元━繁春(庄屋になる)
                ┣女(室津浦上氏室)
                ┗女(肥塚和泉室)
上り藤に井の字
 菅(かん)氏は菅原道実の子孫である。晩年筑前国太宰府に流罪となったが没後、許されて子孫は復権した。また、五代孝標の弟・良正は美作国に地盤を築き、子孫は菅家七流と呼ばれて繁栄した。播州菅家は十二代清長の時、播磨守に任じられたのが始まりで、その子・輔孝を家祖とする。
 赤松氏にとって由緒のある城山城の裾、中之荘(新宮町市野保)の領主として戦国末期を迎えたが勢力は衰えた。
 秀吉の播磨平定後、同地は黒田家の領地の一部となり、正元は長男の正利を黒田官兵衛に出仕させた。それが黒田24騎の菅和泉正利である。正元は息子とは別に筑前国で千三百石を拝領し、その死に際しては家臣数名が殉死している。藩士クラスでの追腹はあまり例がない。名門ゆえであろう。
 美作菅氏は戦国期には宇喜多家の属将となり、関ヶ原で西軍になったため、領地を失い、庄屋となって江戸期を迎えた。

菅道真━高規━雅規━資忠━孝標━定義━輔方(善弘)━宣資(在寛)┓
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┗忠資(時賢)━忠俊(成賢)━淳忠(茂成)━清長(高成)━輔孝(公高)┓
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┗在恒(高顕)━公元(茂有)━在久(武里)━慶兼(実秋)━兼成━基実┓
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┗筑前守公直━正元(義利)━和泉守正利(福岡藩士三千石)
梅星
小河 小河(おごう)氏の先祖は源義経の臣・鷲尾経長という。その子孫が播磨国飾磨郡小河村の地頭となって現地に土着して小河姓を名のった。現在の姫路市花田町小川である。中世は「小河」の字を当てていた。
 文明9年(1477) 応仁の乱の戦後処理で小河村は上月満吉の領地となり、以後小河氏の所在は戦国時代末期まで定かでない。伝承では代々小河村の城主であったと伝えることを考えれば、小寺家の庇護のもと、領土を回復していたのではなかろうか?良利の妻が鞍橋城主白国氏であることから考えてもそれは肯定できる。上月氏もまた本貫地である上月に戻り、七条赤松氏を城主に据えてその重臣になっている。
 小河氏は小寺家に属して秀吉に敵対したため失領したが、信章が黒田家に仕えたために一族揃って豊前国へ移った。信章の家系が江戸前期に最高一万四千石まで出世したが、お家騒動に巻き込まれ、千ニ百石で明治を迎えた。
 一説に小河氏は淡河(おうご)氏の分かれと伝えるが、それは音が似ているという共通点からの錯誤であろう。なぜなら鷲尾氏は関東の千葉氏が源流であり、淡河氏は北条時房の分かれであるからである。

鷲尾三郎経長・・・・小河友恒・・・・┓
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┗武蔵守義直┳三河守良利┳良実(福岡藩士三千石)
      ┃     ┗勘左衛門(宮本武蔵門人)
      ┗伝右衛門信章(黒田24騎)
丸に三つ引


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上記の諸氏の家紋・系図・歴史など、御存知の方ぜひ御連絡ください。