待機中-02



池永豊前国下毛郡池永発祥 属大友氏亀甲に蔦
興津藤原南家船越流半月に丸菱
行方長倉追罰記にみえる・大掾氏族  大掾氏の一族である吉田平四郎忠幹が行方郡の郡司となり行方氏を名乗った。その子宗幹は源平の戦いで源氏方の将として功績を挙げたが屋島の戦いにおいて戦死したため、その所領は行方、島崎、麻生、玉造に分けられ、四人の子供たちにそれぞれ与えられた。
 行方を引き継いだ長子為幹は後に小高城に移り小高氏を名乗り、以後、行方氏改め小高氏は四百年あまりにわたってこの地方の有力な領主として君臨した。しかし、1591年、佐竹義宣により常陸太田で謀殺され小高氏は滅亡した。
右巴
蔭山永享4年(1439)の永享の乱によって鎌倉公方持氏が滅んだときに、3歳であった廣氏が蔭山氏に養われ、後に婿となって蔭山を称したと言われる。廣氏の代以降紀氏を名乗ったが、貞広の代で清和源氏を称した。

                            徳川家康
持氏__義久                        ‖__頼宣(紀伊徳川祖)
  |                           ‖|_頼房(水戸徳川祖)
  |_廣氏__廣親__廣忠__家廣__忠廣__氏廣__於萬の方
   (蔭山)                   |_貞廣__持廣__親廣__廣邦
                              |       |_貞居
                              |       |_正永
                              |_好廣__廣丈__包ロ
                                      |_信歴
丸に抱き沢潟
三上清和源氏加茂義綱−三上義実
三上系図に「源頼義−賀茂二郎義綱−盛実(三上新大夫)−盛経−盛員−家員−宗俊(侍従、養子)」と。又、この氏は室町時代多く見え、永享以来御番帳に「五番、三上近江入道、三上三郎、三上美濃入道、三上掃部助、永享頃より文正三職云々、御供衆 三上美濃入道年世。慈照院義政公 東山へ御移の以後 御供衆、申次、三上兵庫助」と。家紋 釘抜。
【佐々木氏族】これも近江発祥にて、佐々木系図に「井八郎行久の子 信慶(但馬房、三上行経)−上野房、弟 盛俊−井五郎、弟 侍従房」と載せたり。佐々木七隊の一に三上氏見え、又、京極給帳に「二百九十石 三上甚助」とあり。又、峰山京極藩にあり、又、蒲生家臣にもありと。
【幕臣三上氏】家譜には「佐々木左京大夫満高(京極左衛門尉宗氏の六男)の四男 四郎満冬・近江国に住し、三上を称す。その三代孫 蔵人季次(満季)なり」と。 家紋 四目結、丸に三引。
釘抜き(見聞)
肥田見聞諸家紋にみえる・遠江肥田氏三つ盛酢漿草(見聞)
山下三河国額田郡保久城主
【美濃の山下氏】室町時代の名族にして、康正二年造内裏段銭並びに国役引付に「二貫文、山下孫三郎殿、美濃国西庄内、惣領段銭。二貫三百文、山下孫三郎殿、美濃国西庄内、四貫三百文の内、段銭。七百五十文、山下孫三郎殿、尾州賀野東方段銭」など見ゆ。又、見聞諸家紋に「二番 山下孫三郎秀忠、紋 巴(角の内に左三巴)」と。
【清和源氏】三河の豪族にして、「信濃国奥郡(西筑摩郡)山下郷より起こる。木曽義仲の後胤 小市丸義綱を祖とすと云う。家紋 井筒、三頭左巴、丸に二引龍、丸に雪根篠、二引釘貫」と見ゆ。子孫は、寛政系譜に   「綱勝−正綱(松平清康家臣)−綱義−綱次、弟 一勝−周勝−信濃守昌勝」と見ゆ。
升の内右巴(見聞)
小串上野国多胡郡・武蔵七党丹党水に雁(長)/対い雁(見聞)
稲毛讃岐国豪族
【桓武平氏秩父流】武蔵国橘樹郡稲毛庄より起こる。新編風土記に「この庄は古き庄と見えて、鎌倉右大将頼朝の頃、稲毛三郎重成と聞こえて在名を称せしは世に知る所なり。この三郎重成は当国七党の内 小山田別当有重の子にして、その弟 榛谷四郎重朝と同じく父の譲りを受けて、この辺の地をわかち領せしと見ゆ。云々 」と。尊卑分脈に
平 良文−村岡次郎忠頼−武蔵権守将桓−秩父別当武基−十郎武綱−重綱┐
┌――――――――――――――――――――――――――――――――┘
└重弘┬重能−重忠−重康
   └有重−重成(号 稲毛)
【日奉党】西氏系図に武蔵守宗頼−宗親−宗弘−為貞−某−宗時−立川二郎宗恒−恒成−稲毛二郎兵衛尉職泰と載せ、職泰の註に「宝治乱討死、立川三郎兵衛尉、東鑑三十二の十六葉に見ゆ」とし、その子に太郎経泰、基景、行職、泰秀の四人を載せたり。七党系図も稲毛を西党(日奉)とし、泰秀を泰季とす。
三つ並び鷹の羽(見聞)
瓦林藤氏族抱き柏(見聞)
小国越後国三島郡・源頼政弟頼行子孫酢漿草(姓苗事典)
高柿清和源氏佐竹氏族
 久慈郡高垣村より起こる。佐竹氏の族、山入氏(師義)の庶流にして、新編国志に「高垣、小田野義郷の子 等夏、その子 久高 藤四郎と称す。佐竹義舜に属し、山入氏義と戦って死す。その子 康信、子の弾正信広、尾張守たり。その子 新四郎と称し上総守。その子 又四郎信久、功を以って尾張守たり」と。又、「久慈郡松平城は山田郷にあり、佐竹義郷始めて築く。子孫 高垣氏、世々この地に居る。
 義郷は上総介貞義の裔、晩年剃髪して上総入道と称す。永享三年卒す。高垣新四郎信久は、本家義宣に従いて、数々戦功あり。松平上総介と称す。慶長七年、義宣に従い羽州に移り、その城廃虚となる」と。
三つ柏(姓苗事典)
小貫小野崎氏流洲浜/二つ巴(姓苗事典)
国井常陸国那珂郡国井発祥・源頼信−義政木瓜(姓苗事典)
猿渡藤原北家・武蔵国小机地頭剣酢漿草(姓苗事典)
下河辺秀郷流、太田行光−行義三つ巴(姓苗事典)
勝間田藤原南家工藤氏流
遠江国蓁原郡勝間田庄より起こる。応仁二年細川勝元文書に「勝間田荘 地頭職 勝間田越前守」見ゆ。この氏は、藤原南家にして、為憲四代 維遠十二代の孫 行久、子なきにより工藤高景を養う。高景 勝間田を領し、この氏を称すと云う。夫木抄跋に「長清は、法名 蓮昭、この夫木和歌集は、藤原朝臣長清の自選なり。或書に云う、藤原長清は、遠江国住人 勝田越前守なり。この書、蓮昭 生存の間は秘蔵して外見に及ばず。逝去の後、高駿河守の所望により一本書写。その後、高武蔵守師直 一本書写云々」とあり。
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上記の諸氏の家紋・系図・歴史など、御存知の方ぜひ御連絡ください。