奥州白河・会津のみち
・街道をゆく33



 奈良朝・平安朝のころ、関東は奥州ほどでないにしても、半ば別天地だった。
 たしかに政治的にはともに畿内政権の統轄下にあり、陸奥には鎮守府将軍や陸奥守が赴任し、関東八ケ国にはそれぞれ国司が赴任することになっていた。
 ところが、関東でもっとも早くひらけた三ケ国は、いわば地元経営というにちかかった。
 三ケ国とは、常陸国(いまの茨城県の大半)と上総国(いまの千葉県中央部)それに上野国(上州、いまの群馬県)のことで、この三国は、平安時代の八二六年(天長三)という古い時代に”親王任国”とされた(常陸宮家が創設されたとき、その命名のうまさに感心したことがある)。
 この三国は、京にいる親王の経費をまかなう。
 親王は常陸守か上総守、あるいは上野守になりはするが、決して赴任せず”遥任”なのである。
 現地にゆくのは次官である介で、このため常陸介、上総介、上野介にかぎっては、次官でありながら守と同格、もしくはそれ以上のものとされた。
 余談だが、戦国期・江戸期では、守は単に栄爵の称号になった。たとえば尾張の織田信長ははじめ誤って織田上総守と称していたが、物知りがいて、
 −−上総は親王任国ですから、上総守というのは存在しないのです。上総介を称せられよ。
 と、注意したらしい。以後、信長は織田上総介にあらためた。
 元禄時代の吉良上野介義央もそうであった。かれは幕臣のなかでも高家とよばれる高い家格をもち、典礼をつかさどったから、とくに官位が高く、四位の少将で、上野介だった。

 さて、平安時代における三国の”介”のことである。
 この”介”が、土地公有がたてまえである律令体制をくずす蟻の一穴のひとつになった。
 平安初期、関東に都から”介”に任命された男が下向してきた。大変気位が高い男で、
 「自分は桓武天皇の曾孫で、高望王とよばれた」
 と、たえずいっていた。臣籍に降下し、平という姓をもらって、臣下と同様、地方長官になり、上総介として関東にくだったのである。まじめに国衙をまもって都の親王のために租税を送るというだけのしごとをするのもばかばかしく、私権をのばし、国衙領でない土地を開拓して私領をふやした。ついには上総だけでなく、下総から常陸にいたるまで広大な私有地をひろげ、諸子にわかちあたえた。九世紀末のことである。
 長男の国香(良望)に対しては常陸国真壁郡石田をあたえ、次男良兼にはおなじく常陸国真壁郡羽島、三男良将(将門の父)には、下総国豊田をあたえた。
 以後、かれらは土着し、枝葉がおおいにさかえて、いわゆる”武士”になった。

 源氏の武士化は、平家よりずっと遅れた。源頼信(968〜1048)の代になって、意図的に勢力扶植をはかった。
 かれは権勢家の藤原関白道長に奴婢のような姿勢で仕え、機嫌をとり、ほどほどな官職にありついたあと、ついに上野介や常陸介を歴任し、関東武士団に恩威をうえつけた。
 さらには鎮守府将軍になって奥州にゆき、関東・奥州の武士たちを懐柔した。
 それ以上の膨張は、乱をまたねばならない。
 さいわいにして、さきに上総介だった平忠常が、おなじ平氏一門のあいだで私闘をするうち大乱になった。
 源頼信はおそらく朝命による討伐という大義名分を得るべく運動したであろう。
 幸い、朝命を得、同時に全関東の武士団を指揮するという不文律の機能をえて忠常を討伐した。これが1031年のことである。ざっとみて、『源氏物語』が書かれたころといっていい。
 公家の世を謳った『源氏物語』の世界とはうらはらに、忠常の乱ののち関東は、源氏の棟梁の顔のきく世界になった。同時にこの乱以後、関東においては非合法ながらも領主制が形成された。”公地公民”を原則とする律令体制下で武力による領主制が形成されたということじたい、異常である。関東がこのことでも特殊な地帯であったことがわかる。
 さらに源氏が大きくなるには、となりの奥州に乱がおこらねばならない。
 さいわい、おこった。
 1051年に勃発して、十二年間つづいたといわれるこの大乱は、前九年の役とよばれる。
 この戦役のころは、源氏の本家は、頼信の子の頼義と孫の八幡太郎義家の代になっていたが、どちらもぬきんでた武人だったことが、源氏にとって幸運だった。
 とくに義家は武勇はなばなしく、まれにみる将器をもち、さらには人心をよく撹ったために、清和源氏のこの家系が関東武士団の棟梁の位置を確固たるものにした。
 この戦役から約百四十年後に、かれらの流れの末の当主である源頼朝が、関東の地に鎌倉幕府をおこすのである。
【出典:奥州白河・会津のみち 街道をゆく33 司馬遼太郎(朝日文芸文庫)】


■桓武平氏から出た武将家の家紋/■清和源氏から出た武将家の家紋