ヘッダイメージ



座光寺氏
打違い鷹の羽
(清和源氏為朝流/神氏流?)


 座光寺氏の出自は『寛政重修諸家譜』によれば、鎮西八郎為朝の後裔となっている。すなわち、為麻の二男大嶋二郎為家が伊豆国大島を去り、信濃国伊那郡下条に住し、のち同郡座光寺村に移り座光寺を称したことに始まるというのである。
 一方で座光寺氏の出自は、諏訪氏の族であるとも、清和源氏片桐氏族であるとも言われている。ちなみに、諏訪氏系図の一本によれば、藤沢左衛門尉清親の子光清に座光寺四郎とみえている。ちなみに、中世の文献から座光寺氏を拾うと、下記のようになる。

年代 名前 出典
応永年中(1394〜1427) 座光寺河内守 信陽城主得替記
応永七年(1400)  〃 大塔合戦記
長禄四年(1460) 座光寺入道 諏訪上社御符礼之古書
文明三年(1471) 座光寺宮内少輔康有  〃 神使御頭
天文年中(1532〜54) 座光寺左近進頼近
子座光寺越後守
伊那記
永禄十年(1567) 座光寺三郎左衛門尉貞房 生島足島神社起請文
天正三年(1575) 座光寺三郎左衛門尉 開善寺過去帳
出典:座光寺村誌

 これから見ても、座光寺氏は諏訪氏の分かれ神氏の一党とみるのが自然なようだ。いずれにしろ、座光寺氏は信濃国伊那郡座光寺村を本拠として、戦国時代は国人領主のひとりに成長していた。

伊那の国人、座光寺氏

 戦国期の伊那郡では、神之峰城に拠る知久氏が勢力を拡大し、知久頼元の代になると近隣の諸領主を切りしたがえていった。頼元の勢力拡大とともに、飯田城主坂西伊予守と対立するようになり、ついに天文十五年(1546)両者は領地をめぐって合戦となった。追い詰められた坂西氏は松尾小笠原氏、吉岡下条氏に支援を頼み、両氏の仲介によって和睦が成立。坂西氏は知久氏に黒田村、南条村、座光寺の上野原、飯沼の四ケ所を割譲し、加えて頼元の女を嫡子の式部少輔の室としたのである。このような知久氏の勢力拡大にともなって、上野の領主座光寺氏も知久氏に属するようになった。
 天文年間(1532〜54)、甲斐の戦国大名武田晴信(信玄)が信濃への侵攻を開始し、天文十一年(1542)、信濃四大将の一人と称された諏訪頼重が滅ぼされた。ついで武田軍は伊那地方に進撃、伊那郡の諸領主は次々と武田氏の軍門に降り、知久頼元も武田氏に帰服した。天文十六年、晴信は上伊那・下伊那の動向を監視するため秋山信友を高遠城に配した。
 秋山氏に対して、上伊那の知久氏、下伊那の座光寺・下条氏らは事を構える姿勢は示さなかったが、心から武田氏に服したものでもなかった。そのような知久氏、座光寺氏らの伊那勢が武田氏に対して態度を硬化させたのは、天文二十二年(1553)であった。この年、晴信によって領地を逐われた北信の諸将の請いを入れた越後の長尾景虎が信州川中島に兵を進めたのである。そして、武田軍と長尾軍との間で、第一回目の川中島の戦いが行われた。
 高遠城主秋山信友も晴信に従って越軍と戦い、翌年の四月に高遠城へ帰陣した。その信友に対して知久・座光寺氏らは神之峰城周辺に兵を集め、武田氏に叛旗を翻したのである。信友からの急報に接した晴信はただちに三千騎の兵を率いて伊那に出陣、先鋒は秋山信友が務めた。
 武田軍の進攻に対して頼元は、小渋川より伊久間川まで人数を配して武田軍を迎え撃った。知久勢は猛烈な武田軍の攻撃をよく防いだが、頼元の嫡子頼康をはじめ多くの武士が討たれ、次第に劣勢に追い込まれていった。知久勢は強勢の武田軍によって神之峰城に追いつめられ、ついに、知久頼元父子、座光寺貞信ら主だった武将は生け捕りとなった。

座光寺氏、近世へ

 ここに座光寺氏は挫折にみまわれ、一族のなかには武田氏に属するものもいた。やがて天正十年(1582)、武田氏が織田軍の甲斐侵攻によって滅亡し、武田氏遺臣の多くが徳川氏に属した。座光寺為清もその一人で、徳川家康に仕えた。為清の子為時は家康の関東移封に従い、上野国内で九百五十石余の知行を与えられた。
 為時は慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦に出陣、戦後、信濃国伊那郡にて千石を賜り山吹を居所とした。元和元年(1615)の「夏の陣」には、小笠原長臣・知久頼氏らとともに「伊那衆」として出陣している。かくして、座光寺氏は交代寄合に列し、信濃山吹千百十五石を領して、子孫相継いで明治維新に至った。


■参考略系図
    


バック 戦国大名探究 出自事典 地方別武将家 大名一覧