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山吉氏
花輪違い/上り藤
(桓武平氏三浦氏流)


 山吉氏は、室町時代から戦国時代にかけて蒲原郡司として三条を中心としてその足跡を残した。その姓から蒲原郡山吉が名字の地といい、初めは現在の見附市山吉町を本拠にしていたものと考えられる。その山吉氏が確実な史料に現れるのは、応永三十三年(1426)三条島城将としてである。
 山吉氏系図によれば、その祖を桓武平氏三浦氏から分かれたと記されているが、世代数などに疑問があり、その真偽は定かではない。また、系図に家紋が「花輪違いに剣花菱」とみえていることから、平安時代から鎌倉初期において越後に勢力を振るった桓武平氏系城氏との関係も想像させる。

中世争乱

 越後は南北朝時代に南朝方の新田氏が守護として勢力を振るったが、新田義貞が越前で戦死してのちは上杉憲顕が越後守護に任ぜられ、以後、上杉氏が戦国時代に至るまで越後守護職を世襲した。守護は在京して将軍に近侍することを例としたため、領国の政務を事実上とったのは守護代であり、越後上杉氏の守護代は長尾氏が世襲した。越後は関東に近いことから鎌倉府の影響を受けることが多く、このことが在京の守護は親幕府派、守護代は鎌倉府寄りという政治状況を生むことになった。
 室町時代は、中央では「明徳の乱(1391)」「応永の乱(1423)」などが勃発し、関東では「上杉禅秀の乱(1416)」が勃発するなど日本全国は慢性的な戦乱状態が続いた。とくに関東の主である関東公方は幕府と対抗的姿勢を見せることが多く、それが不穏な情勢の原因となることが多かった。
 関東の戦乱は、越後にも影響を与え、在国の守護代長尾氏は越後の兵を率いて関東に出陣しその地歩を固めていった。当然、それは守護との対立を生じ、「応永の乱」となり越後国内は守護方と反守護方に分かれて戦乱が繰り返されることになった。そして、この戦乱は戦国時代が終焉するまで止むことなく続いた。三条島城がはじめて文書に出てくるのは、この「応永の乱」においてであった。当時の越後守護は房朝であったが在京していたため、守護代の長尾邦景が一国の政治にあたっていた。そして、長尾氏は守護に代わって関東の戦乱に出陣するなどして、次第に守護をないがしろにするようになり、ついには守護上杉氏と対立するようになったのである。
 一方、公方持氏は幕府に反抗的な姿勢を続け、ついに「永享の乱(1438〜1439」を引き起こして幕府軍の攻撃を受け持氏は敗れて自害、鎌倉府は滅亡という事態となった。その後、「結城合戦」を経て再興された鎌倉府の主となった成氏も反幕府的姿勢であったことから、管領上杉氏と対立し「享徳の乱(1455)」を引き起こした。そして、この乱が関東を戦国時代へと叩きこむきっかけとなったのである。

蒲原郡司として勢力を伸張

 越後守護代として権勢を振るった長尾氏は、長尾景恒の子新左衛門尉が蒲原郡代官の職を占めたことに発し、新左衛門尉が南朝方小国氏の襲撃で戦死したあとは、その弟高景が蒲原郡代官を継いだ。以後、長尾氏は蒲原郡司として三条島城を拠点としたことで三条長尾氏と呼ばれる。その後、高景は府内に移り守護代職を世襲し、越後長尾氏の宗家となった。
 そして、三条長尾氏の蒲原郡管轄権は、その被官の山吉氏が継承することになった。そして、山吉氏は三条島城に拠って勢力を築き、三条の本成寺の大檀那として重きをなした。山吉氏が蒲原郡司としての職権を行使した初出史料は応永二十九年(1422)山吉行盛が奥山庄の黒川氏に知行安堵状を発給したものである。このことから、山吉氏は応永の大乱以前から、蒲原郡代官の位置を占めていたとみられる。このころの長尾氏の当主は高景の子邦景であった。
 山吉氏は長尾氏に仕えて蒲原郡司の職務を代行し、阿賀野川以北の蒲原郡、瀬波郡の国人の所務沙汰を管掌して、守護の奉行人あるいは守護代の職務を在地に練達していた。そして、応永の大乱に際して三条島城を守った山吉行盛は、長尾邦景の腹心であった。乱はその後に和睦が成立したものの、、応永三十三年、ふたたび武力衝突が起り、三条島城主だった山吉久盛は、長尾方に属して守護方と対峙した。三条島城は守護方の中条房資の軍勢に包囲され、久盛は苦戦を強いられついには自害をはかろうとするほどの事態となった。ところが、包囲軍に裏切り者が出るなどしたことで、ようやく危機を脱出している。
 宝徳二十年(1450)、守護上杉房定が帰国して専横を振るっていた長尾邦景を切腹させ、子の実景を追放して近臣の長尾頼景を守護代に任じた。その後、信濃に逃れていた実景が越後に攻め込もうとしたが根地谷口で敗れて没落すると、守護上杉房定・守護代長尾頼景の政権は安定し、長尾氏も新たな家系をもって守護代を世襲するところとなった。その後も山吉氏は久盛・能盛・正盛らの名前があらわれ、応永の大乱後も三条郡司としての権限を保ち続けた。このことは、山吉氏が蒲原郡における強固な在地的基盤を築き上げていたことを物語っている。

越後の戦乱

 応仁元年(1467)、幕府内の権力闘争から「応仁の乱」が勃発、戦いは十年間にわたって続き京都のほとんどが焦土と化してしまった。京都における戦乱は終熄に向かったものの、応仁の乱の影響は全国に波及し時代は確実に戦国時代へと推移していった。
 越後では守護房定が守護代長尾邦景を切腹させ子の実景を追放して守護権力を確立、関東管領職に二男顕定を送り込むなどして関東の戦乱に主導的立場でのぞみ、ついには古河公方と幕府の和解も実現した。一方で、越後国内に検地を行って守護権力の強化を図った。越後の名君といわれる房定の一代は国内にも平穏が続いたが、子の房能があとを継ぐと次第に守護代長尾氏、国人らとの対立が生じるようになった。
 永正三年(1506)、守護代長尾能景が越中で戦死し、そのあとを嫡子為景が継いだ。為景は公然と房能と対立し、永正四年(1507)房能の養子定実を擁して叛乱の兵を挙げた。この為景の叛乱に、揚北衆をはじめ多くの国人領主が加担したため、守護房能は敗れ関東に逃れようとしたが為景勢の追撃によって討死をとげた。まさに、為景の下剋上であり、この「永正の乱」をもって越後の戦国時代が始まったとするのが定説となっている。
 為景勢と守護勢との戦いは山吉氏の居城である三条島城や田上の護摩堂山城、大面城、黒滝城などが戦場となり、三条島城主の山吉孫次郎政久は為景方に属して守護勢と戦った。戦後、為景は味方となった本成寺に書状を送っているが、そのなかに「山吉氏とともによく働いてくれた」という件があり、山吉氏が本成寺の僧兵とともに為景方として活躍したことが知られる。
 その後、関東管領で房能の兄である顕定が越後に攻め入り、為景と定実は越中に逃れ去った。やがて態勢を立て直した為景は越後に攻め込み顕定軍を破り、関東に逃れようとする顕定を捕捉してこれを討ち取ったのである。為景は短時日のうちに二度の下剋上を行ったことになり、まさに乱世の驍将と呼ぶにふさわしい人物であった。
 「永正の乱」で守護上杉氏を倒した長尾為景は、守護として上杉定実を推戴しているとはいえ、それは形ばかりのことで実権は為景の手中にあった。この事態を定実が快く思うはずもなく、定実は実家の上条上杉定憲と琵琶島城主宇佐美房忠らの協力を得て、為景打倒の兵を挙げたがたちまち平定されてしまった。敗れたとはいえ上条定憲を中心とする守護方は為景に対して抵抗を続け、享禄三年(1530)上条氏はふたたび兵を挙げた。いわゆる「上条氏の乱」であり、三条城主山吉政久や本成寺などの三条勢は為景方に属して活躍、長尾為景の勝利に貢献した。
 為景が越後国主として君臨できたのは、室町幕府との関係が大きかった。とくに管領細川高国の存在は為景にとって心強い後楯であったが、幕府内の権力争いに敗れた高国が敗死すると、上条氏を盟主とする守護方は三たび為景に対して挙兵した。これに揚北衆や上田長尾氏らが加担したことで、次第に為景方は守勢に追い込まれていった。ついに天文五年(1536)万事窮した為景は家督を嫡子晴景に譲って隠居し、その年の暮れに波瀾の生涯を閉じたのである。晴景は事態を収拾するために定実を守護として推戴、上条氏らも矛をおさめたことで乱は自然に終熄していった。

長尾景虎の登場

 思いがけず守護に返り咲いた房定には実子がなかったため、養子の一件が持ち上がり、それが原因となって越後はまたも戦乱となった。しかし、守護代の晴景は生来の病弱のうえに越後一国を治める器量にも欠けていたため、国人衆らは長尾氏に対して反抗的な姿勢を崩さなかった。晴景は僧籍にあった弟を還俗させ景虎と名乗らせて栃尾城主とし、長尾氏の軍事力の一翼を担わせたのである。これが長尾景虎(のちの上杉謙信)の歴史への登場であり、景虎は反対勢力を平定して武名を上げた。この景虎に着目したのが晴景と対抗関係にある中条藤資でそれに山吉氏・高梨氏らが加担して景虎を晴景に代わって越後の国主にしようとする動きが表面化し、晴景派と景虎派とに分かれての戦いとなった。この事態を打破するため守護上杉定実が調停に乗り出し、晴景が景虎に家督を譲ることで兄弟争いは一応の解決をみた。
 景虎が国主となったとはいえ、長尾政景などの反乱が続いた。その後、守護上杉定実が死去したことで名実ともに長尾景虎は越後国主となり、政景の反乱も平定され越後国内における対抗勢力は消滅した。こうして、越後を統一した景虎は越後の兵を率いて信濃・関東へと出陣するようになるのである。
 そのころ、隣国の信濃は甲斐の戦国大名武田信玄(晴信)の侵略を受け、領地を逐われた信濃の国人領主らは景虎を頼って旧領回復を願ったことで「川中島合戦」が起った。さらに、小田原北条氏の攻勢によって関東から逃れてきた関東管領上杉憲政を庇護し、憲政の要請をいれて永禄三年(1560)関東に兵を進めた。その翌年景虎は小田原城を攻めたのち、憲政から上杉名字と関東管領職を譲られ上杉政虎(以下、謙信と表記)を称した。そして、越後に帰国するとただちに川中島に兵を進め、もっとも激戦となった第四回目の川中島合戦を戦っている。まさに、上杉謙信は座を温める間もなく、東奔西走を続けた。そして、このころになると戦国時代は在地の豪族たちが所領を争う時代から、より大きな勢力同士がぶつかりあう時代へと変化していった。
 話は前後するが、永禄二年、長尾景虎は上洛して帰国したとき、越後の諸将が太刀を献じてこれを祝した。この時の侍の序列は、「直太刀の衆」として上杉・長尾氏の一門、続いて「披露太刀ノ衆」とされる外様・譜代の国人、最後に「御馬廻年寄分ノ衆」とされる旗本幹部の順が付けられていた。そして、「御馬廻年寄分ノ衆」のなかに「山吉方」と記されている。
 永禄二年当時の山吉氏の当主は不明だが、天文二十一年(1552)には山吉政応が郡司として景虎の命を奉じて、揚北の中条氏と黒川氏の境界紛争の調停を試みたことが知られる。また、同年のこととして山吉孫四郎が中条氏と黒川氏の境界紛争について、景虎の命令を執行している。そして孫四郎には「若輩ではあるけれども」と書かれていることから政応とは別人物で、おそらく政応の子か一族が政応の代理として郡司の職責を代行したものと考えられる。『上杉御年譜』では、永禄二年の「山吉方」を政応の子山吉孫二郎豊守だとし、山吉系図によれば豊守は政応の嫡子である。

山吉豊守の活躍

 かくして謙信に側近として仕えたのが山吉豊守で、豊守の記録上の確実な初出は永禄九年(1566)のことである。豊守は謙信に仕えて奏者を務め、信濃や関東地方の諸大名との外交に骨身を削った。当時、甲斐には武田氏、駿河には今川氏、会津には葦名氏、相模には北条氏など有力な戦国大名がいて、隙あらばと互いに睨み合っていた。まさに油断のならない状況のなかで、山吉豊守は諸大名との外交戦略に尽力していたのである。
 永禄十一年(1568)に信州口・越中口が緊張すると、謙信は麾下の諸将を両地に派遣した。そして、手薄になった春日山城へは山吉豊守・斎藤朝信・本庄実乃らのの家臣団を呼び寄せた。山吉氏・斎藤氏・本庄氏らは謙信から最も信頼の篤い諸将であり、かれらの家臣は謙信から旗本同様の信任を受けていたことが知られる。
 永禄十二年から十三年(元亀元年)には、小田原北条氏との同盟実現のために奔走し、越相同盟の締結を実現した。ついで元亀二年から天正元年(1573)にかけては、常陸・下野の諸大名間の調停、越中の防衛をめぐって越中に派遣された諸将との連絡や飛騨の江馬輝盛との交渉などに走り回った。その一方で、国内では揚北の中条氏と黒川氏との境界紛争の調停に活躍し、上杉謙信の奉行人として触れ書きや禁制の制定にもあたっていた。まさに豊守は、謙信の側近中の側近であった。
 豊守が謙信の側近として活躍していたころ、三条島城の留守を守っていたのは叔父の景久で豊守に代わって万事を取り仕切っていた。このころの山吉氏の軍事力を知るものとして天正三年の「謙信軍役帳」があるが、山吉豊守は譜代・旗本として、鑓二百三十五・手明四十・鉄砲二十・大小旗三十・騎馬五十二の軍役を担い、有力国人である色部顕長の鑓百六十・手明二十・鉄砲十二・大小旗十五・騎馬二十と比べるまでもなく謙信麾下の諸将のなかで最大の軍役を担っていた。
 このように豊守は謙信の篤い信頼を受けて、軍政ともに活躍を示したが、激務がたたったのであろうか、天正五年(1577)三十五歳の働き盛りで病死した。
 豊守には子供が無かったため弟の景長が十三歳で家督を継いだが、上杉氏の家法によって領地は半分に減らされ、三条城から木場城へ移されることになり、三条城へは代わって神余親綱が城主として入った。領地が半減したとはいえ、家法によれば成人(十五歳)するまでは没収というのが定法であったものを代々の長尾氏に対する忠節と豊守の功によって半減という処置に止められたようだ。山吉氏の家政は幼い景長を叔父景久がよく補佐して、景長の成長を見守ったことが知られる。しかし、先祖以来の三条城を失ったことは山吉氏にとっては痛恨時であった。

戦国時代の終焉

 その翌年三月、上杉謙信が急病で死去した。謙信は後継ぎを決めていなかったため、ともに養子である上杉景勝と上杉景虎が家督をめぐって対立、家中は景勝派と景虎派に分かれての戦いとなった。世にいわれる「御館の乱」で、この乱に際して山吉景長は景勝派に属し木場城を守って活躍した。ちなみに、山吉氏の旧城である三条城主の神余親綱は栃尾城の本庄秀綱らとともに景虎方についたため、天正八年(1580)、景勝方の攻撃を受けて三条城は落城した。
 乱は景勝派の勝利に終わり、景勝が謙信のあとをついで上杉氏の当主となった。ところが、乱に活躍を示した新発田重家が乱後の恩賞に不満を抱き、ついには景勝に対して謀叛を起こした。山吉氏の居城木場城は新発田氏の居城新発田城に対して押えの要地であることから、景勝は蓼沼弥七を援将として送り込み新発田勢への備えを固めさせた。以後、木場城は新発田勢に対する拠点として、何度か新発田氏の攻撃を受けたが、山吉景長はよく城を守って新発田勢を撃退、景勝から再三の感状を受けている。天正十四年四月には新潟津で合戦、七月にも新潟沼垂に出陣して新発田勢と戦っている。とくに七月の合戦で景長は新発田駿河守を討ち取る功を上げている。翌天正十五年秋、景勝を苦しめた新発田氏の乱も新発田重家が討たれたことで終熄した。
 越後の内乱を克服した景勝は上洛して豊臣秀吉に拝謁し、豊臣大名の一員に列した。そして天正十七年には佐渡征伐を行い、山吉景守は先陣を承った。ついで翌十八年(1580)秀吉の小田原北条氏攻めがあり、景長も景勝に従って出陣、八王子城攻めに加わった。さらに、文禄元年(1592)の朝鮮出兵にも母衣武者として出陣している。
 慶長三年(1598)、上杉景勝は越後から会津百二十万石へ国替えとなり景長もこれに従った。翌年、景長は米沢和田蔵に派遣され、仙台の伊達政宗に対する備えを担った。慶長五年の関ヶ原の合戦において、上杉景勝は石田三成に加担して最上に兵を進めたが、景長は和田蔵の守備に専念していたようだ。関ヶ原の合戦は徳川家康の勝利に終わり、上杉氏は米沢三十万石に減封処分となり、景長もそれに従って米沢に移り子孫は米沢藩士として続いた。


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