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岩下氏
雪持ち笹
(滋野氏族海野氏一族)<


 「岩下」が地名や人名として、史料にあらわれるのはいつからだろうか。その初見は、鎌倉時代末期の正安三年(1301)に地名として『宴曲抄』に出てくる。次は、『大塔物語』の中に「海野宮内少輔幸義、舎弟中村弥平四郎、会田岩下、大草、飛賀野、田沢、塔原、深井、土肥、矢島以下」と記されている。「会田岩下」を続けて読むか、「会田・岩下」と分けて読むかによって、岩下氏のこの当時の在り方に大きな差が出る。
 別々に読むと中村・会田・岩下・大草・飛賀野、となって、信濃国小泉に在地する族と筑摩に在地する族とが入り交じって記されていることになるが、「会田岩下」すなわち「会田の岩下」と読むと、海野幸義と中村弥平四郎は小県、会田岩下氏以下は東筑摩となって記述の順が明瞭になる。
 嘉暦四年の頭役注文においても、会田知行の海野信濃権守は、小泉庄の一部地頭職は持っているが、海野庄に所領はもっていない。だから、「会田岩下」と読むのが順当のように思われる。とすれば、応永七年(1400)頃は、岩下氏が会田五ケ郷を知行していたこととなる。
 『東筑摩郡、松本市、塩尻市誌』には、「会田氏の居館は、現在会田小学校のある殿村の地で、要害城は、その北方の鷲ケ峰・虚空蔵山である。虚空蔵山城は会田城ともいい、山腹の中の陣が本城、その他いくつかの小砦がこれをめぐっていると記している」そして、小岩井郷一帯で、頭役銭三十貫文を勤めているから、支配地域もかなり広かったようだ。
 岩下氏は、当初小県郡内海野庄を知行して、岩下氏を名乗ったのであろう。『御符札之古書』にゆると、室町中期には、岩下三河守・岩下満幸・岩下増寿丸と伝領されていることが知られる。
 岩下氏の系譜については、『小県郡史』『続郡書類従』『系図纂要』など、諸本が伝わっている。この三つの系図に共通していることは、いずれも、海野幸義の弟が岩下氏を名乗り、それが岩下豊後守であったことである。そして海野持幸より二代前に分かれたとなると、1380年から1400年頃の間となる。
 これは、ちょうど、岩下氏が会田郷に入ったと推定されている時代と一致するが、現存史料によれば、会田氏の菩提寺である広田寺の開基が岩下豊後守で、その年代は永正年間であり、この間百年余のへだたりがある。また、時代はくだるが、塩田平の生島足島神社蔵の永禄十年の起請文に現われる岩下駿河守や岩下源介幸広は『小県郡史』所蔵の系図と一致するが、『御符札之古書』の名前とは合わないのである。
 このように、岩下氏の歴史についてははっきりしない点が多く、一貫した把握は困難としか言いようがないのである。
 おそらく、岩下氏が拠ったとされる会田郷は海野一族が伝領して支配してきたものであろうが、鎌倉から室町への 移行期、十五世紀末から十六世紀初頭にかけて、滋野氏一族の内部において、支配者の交代があったと見た方が、 史料上の不整合が解決するのではないだろうか。

参考資料:上田市立図書館蔵書】



■参考略系図


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