瓜生氏は嵯峨源氏・箕田宛の子、源二渡辺綱の後裔である。綱は足柄金時らと並んで、源頼光四天王の一人として有名。仁明源氏敦の養子となって、摂津国西成郡渡辺村に移り住み、渡辺氏を称するようになった。 その後裔からは、毛利氏に属した渡辺氏、徳川家康に仕えた渡辺守綱、肥前の国に広がった子孫からは、戦国大名松浦氏をはじめ、宇久・波多・佐志などの諸氏が出ている。嵯峨源氏は名乗りが一字名であることが、その特徴である。瓜生氏も嵯峨源氏の一流としてその名乗りは、すべて一字である。 右馬助定のときに越後の国に移り住んだと伝える。そして、定の孫・種が瓜生に住して瓜生を家号にしたとされる。種は承久の乱で宮方について敗れ、瓜生氏は一時衰退していたようだ。 瓜生氏の軌跡 元弘三年(1333)後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒し、建武の親政が始まった。しかし、その政治の矛盾から足利尊氏が諸国の武士の棟梁として、後醍醐天皇と対立するようになり、ついには南北朝分裂の時代となる。このころの瓜生氏の当主は保で、かれを中心として瓜生一族は南朝方として戦っている。 新田義貞は後醍醐天皇に仕え、南朝の中心となって足利尊氏と対抗したが戦に敗れて、尊良・恒良の両親王を奉じて京都から北陸に撤退し、敦賀の金ケ崎城に拠った。しかし、尊氏方の将・斯波高経、高師泰ら六万の大軍に包囲され善戦むなしく、建武四年(1337)三月、金ケ崎城は落城。義貞の嫡子義興と尊良親王は自害した。恒良親王は足利方に毒殺されたと伝える。 落城が迫ったころ、義貞は援軍を求めて城を出たが時すでに遅かった。義貞はこの後一年あまりも戦ったが、建武五年七月、足利軍と灯明寺畷で戦い、藤島の地で壮烈な討死をとげた。 このとき、現在の北陸トンネルに近い剣阻をもってなる北陸の尾根、杣山に拠点を構えた瓜生保は新田義貞軍に加勢、よく善戦したが衆寡敵せず、敦賀に近い山峡の樫曲で戦死。このとき、弟の重ら一族もともに戦死した。瓜生氏は承久の乱でも宮方に属して敗れ、南北朝においても宮方に属して敗れたことになる。 その後、瓜生氏は足利幕府に仕えたようで、『見聞諸家紋』をみると、瓜生源九郎受の家紋として「瓜」が 記されている。戦国時代における瓜生氏の消息は詳らかではない。 ■参考略系図 |