戦国大名武田氏の軍編成のなかに、旗本や、地方武将たちにひきいられる被官の同心、武士たち以外に、衆あるいは党と呼ばれる地域ごとにまとまった集団の武士たちがあった。そのなかでも武川衆と津金衆が知られている。 『甲斐国志』によれば、津金衆というのは、もと佐竹氏で、武田信昌の時代に薩摩守胤義というものがその子の美濃守胤秀とともに甲斐に来て、津金村と信州佐久郡を所領して、ついに在名をとって津金と称し、子孫繁栄して津金党と称したという。津金氏からは、小尾・比志・小池・箕輪・村山・八巻・清水・井出・鷹見沢・河上等の諸氏が分出したとされる。その頭目は津金氏で、平沢峠を越える平沢口と、十文字峠を越える佐久口がその警護範囲であった。 徳川家康に仕える 胤久の代に一党を引具して家康に付き従い、本領を安堵せしめられた。その様子は武川衆の去就によく似ており、天正十年、武田勝頼の滅亡にあたり、はじめは北条氏直に誘われたが付かず、小尾氏とともに妻子を家康に人質として差し出して従属した。 天正十年六月から十月の時点で、津金衆は大方先方衆をうけたまわり、その動きはいかにも地理を熟知したこの衆ならではの独特な動きを見せている。 津金衆は家康が新府にあって若神子に陣した北条氏直と対陣した際、下津金の要害に潜み、夜を窺い不意に立って江草の砦を抜き、穂坂口・川上口を開いた。国境の津金は天然の要害にかこまれており、ここを扼す山城・砦・関門・のろし台をめぐっては縦横に迷路が走っており、その防備体制を突破することはなかなか困難なことであった。さらに、ここに兵を潜ませれば、敵方の侵入は困難なばかりでなく、この伏兵は夜襲の任務ももっていたことが窺われる。 このように津金衆は、土着のいわゆる在地性を活かした武士団であって、東国の戦国大名は国境警備にはこのような衆を活用していたと思われ、それぞれの衆もその個性をもって戦国大名に仕えていたことが知られる。 天正十年九月、家康は津金胤久と小尾祐光の兄弟に対して、改めて旧領を安堵し、なお新知行を恩賞として与えている。 津金衆の一員で、高根町の小池に住した小池筑前守信胤も津金衆のなかでは頭目で、天正十年六月の時点では家康の命で信州表の計策に走り廻り、恩賞を受けている。同年九月には、津金修理亮・小尾堅監ものと三人連名で家康の朱印状を受けている。この文書のなかに津金衆に付属する「境目之者共……」に対しても恩賞を宛行われるべきことが定められてある。この"境目の者"は、つまり国境警備の士で、津金衆の性格がうかがわれるものである。 ■参考略系図 |