鞆田氏
不詳
(古代都祁国造後裔?)


 鞆田氏は都祁郷の国人のなかでは由緒がもっとも古く、歴代が都祁郷の総鎮守である都祁水分神社の神主を務めていた。一方で都祁郷鞆田庄の下司職にあり、全盛期には鞆田、無山、小山戸、藺生、水湧、南殿、向淵、針の山内七庄の代官を務めていた。この山内七庄は都祁郷の主要地域であり、鞆田氏は都祁郷を代表する国人であった。後に多田氏の進出などによって勢力後退を余儀なくされたが、都祁水分神社の神主職はかなり後まで保っていた。
 また、鞆田氏は興福寺被官でもあり、大乗院門跡坊人で国民であった。はやくから古市氏に属し、文明七年(1475)の奈良大鳥居合戦や尼坂合戦などで討死した古市衆のなかに「鞆田」「同室」の名がみえる。「同室」とは一族の鞆田室氏のことを指す。さらに別の史料では「鞆田山城 鞆田武蔵」の名があって、鞆田山城という表現が注目される。
   都祁来迎寺の檀越として、多田氏が開いた染田天神講千句連歌会にも参加し、永禄六年(1563)には年預を勤めて千句連歌会を鞆田で開催している。東山内の国人としては比較的安定した勢力であったようだ。

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【資料:都祁村史/大和史料/奈良県史=大和武士 ほか】



■参考略系図  
  


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