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楯岡(本城)氏
五三の桐/菊
(清和源氏最上氏流)
・幕紋は「釘抜」と伝えられる。


 戦国時代、出羽の戦国大名最上義光麾下の勇将に楯岡豊前守満茂がいた。そもそも楯岡氏は最上氏の一族で、いわゆる清和源氏である。楯岡氏のはじめは、応永十三年(1406)、最上氏三代満直の四男伊予守満国が楯岡城に入部したことに求められる。以後、系図によれば代々の人名が列記されているが、その動向は必ずしも明確ではない。
 楯岡氏の名をあげたのは、戦国時代の楯岡氏七代目の楯岡満茂であった。満茂は豊前守を称し、最上義光に従って所々の合戦に出陣して活躍した。

豊前守満茂の活躍

 最上義光は山形城を拠点に、南の伊達氏、西の武藤氏、北の小野寺氏らと抗争を繰り返した。天正十四年(1586)五月、小野寺義道は六千余の軍勢を率いて最上領に攻め込もうとした。これを知った最上義光も小野寺軍を迎え撃つべく、一万余の軍勢を率いて出陣した。両軍は最上領と小野寺領の領界をなす有屋峠で遭遇し、最上勢は小野寺方の名将八柏大和守の策略によって多数の兵を討ち取られた。
 このころ、最上義光は庄内で武藤氏と戦っていたこともあって、頽勢の有屋峠は子の義康に任せて庄内に向かった。有屋峠を任された義康率いる最上勢は反撃に立ち上がり、豊前守満茂、鮭延典膳らの奮戦もあって、ついに多くの小野寺方の将兵を討ち取る勝利を得た。
 やがて、天正十八年(1590)の「小田原の役」つづく「奥州仕置」によって、豊臣秀吉の天下統一がなった。とはいえ、最上氏と小野寺氏とは抗争を続けており、小野寺方の八柏大和守の活躍で、一進一退の状態にあった。状況を打破するため義光は陰謀をめぐらし、小野寺義道に八柏大和守を討たせることに成功した。文禄三年(1595)の正月のことであったという。
 八柏大和守を亡きものとした最上義光は、楯岡豊前守を大将に命じて小野寺方の湯沢城を攻撃した。湯沢城主は八柏大和守の一族である小野寺孫七郎兄弟が守将で、楯岡豊前守の率いる最上勢の攻撃をよく防いだ。しかし、勢に優る最上勢は猛攻撃を展開して、孫七郎兄弟を討ち取り湯沢城を攻略した。このとき、小野寺義道は横手城にいて援軍を送ろうとしたが、周囲の不穏な気配からついに孫七郎兄弟を見殺しにしたのであった。その後、湯沢城は豊前守満茂が城主となり、秋田に進攻した最上勢の前線指揮官として小野寺氏らと対峙を続けたのである。

本荘四万石の城主となる

 慶長五年(1600)、「関ヶ原の合戦」が起ると、最上氏は家康方に味方し、小野寺氏は最上氏との対立関係から三成・上杉方に味方した。結果は家康方の勝利に終わり、戦後、最上義光は奥羽第一の殊勲者として一躍五十七万石の大大名となった。そして、由利地方を領することになり、湯沢城主豊前守満茂を由利郡に送り込んだ。満茂は五百騎の兵を率いて亀田赤尾津城に入ったが、その後、本荘の地を由利統治の拠点に定め、本拠を本荘に移し本庄城(鶴舞城とも呼ぶ)の築城に着手した。由利郡に入った満茂は一時赤尾津満茂と名乗ったが、後に本荘に移ると本荘(本城)満茂と名乗るようになった。
 ちなみに、由利郡は五万五千石といわれ、楯岡氏がそのうちの四万石を領し、滝沢氏が一万石、岩谷氏三千石、外二千石は最上氏の蔵入地となった。また、矢島には豊前守の弟である楯岡長門守満広を置いて、最上氏は由利郡を治めたのである。楯岡氏の四万石という領地は、立派に大名並みのものであった。
 最上義光が死去したあと、最上氏家中には御家騒動が起り、ついに元和八年(1622)、最上氏は改易され没落の運命となった。同時に豊前守も由利郡の所領を没収され、豊前守・長門守兄弟は前橋藩主酒井雅楽頭に預けられた。その後、赦されて子孫は本多氏に仕えたと伝えられている。
 ところで、余談ながら林崎流居合術の祖である林崎甚助源重信の父は浅野数馬源重治といい、楯岡氏六代目の楯岡満英(義郡?)に仕えていたといわれる。村山市林崎にある林崎居合神社は、林崎甚助源重信公を祀る神社として知られている。



■参考略系図


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