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田丸氏
八段の鞠挟み
(村上源氏北畠氏支流)


 伊勢国司として、また国司大名としても有名な北畠氏からの分かれである。『寛政重修諸家譜』には、「家伝にいわく、北畠大納言材親が三男中将具忠伊勢国田丸城に住して田丸を称号とす」とみえ、北畠材親の三男具忠が分割相続をし、その与えられた所の地名をもって苗字としたことがうかがわれる。
 もっとも、太田亮氏の『姓氏家系大辞典』によれば異説もあって、たとえば「星合系図」によれば、具忠の父は材親ではなく、材親の一代前の政郷(政具)としており、前記『寛政重修諸家譜』は村上源氏としているが、そうではなく、清和源氏愛洲氏の流れとする説もある。
 田丸氏歴代のなかで最も華々しい活躍をしているのは、具忠の子直昌のときである。直昌は忠昌と書かれるときもあり、それ以外にも史料によって具忠・具安などいろいろに書かれていて、そのときどきで名乗りを変えたものであろうが、直昌の動きを理解しにくくしている。直昌は蒲生氏郷の妹婿、あるいは姉婿ともいわれている。
 北畠氏の没落後、織田信長に属し、はじめは蒲生氏郷の与力となっていたが、慶長三年(1598)蒲生氏を離れて豊臣秀吉に直仕することになった。信州川中島海津城主として四万石の大名となり、秀吉死後、美濃岩村城主となった。
 ところが、関ヶ原の戦いのとき、はじめ家康に従軍して会津征伐に従ったが、途中、小山の陣での評議のとき、西軍につくことを宣言し、結局は所領を失っている。なお、子直茂が前田利長に寄寓し、その数代あとに幕臣に取り立てられた。



■参考略系図


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