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高清水氏
丸に二つ引両*
(清和源氏足利流大崎氏支族)
*不詳、大崎一門として大崎氏の家紋「二つ引両」を掲載。


 大崎氏は清和源氏足利氏流で、斯波高経の弟・家兼を祖とする。南北朝初期に置ける奥州北朝方の四探題として、吉良・畠山・石塔・斯波(大崎)がいて、その活躍が歴史に見えるが、この四氏はいずれも足利氏の分族である。
 斯波家兼の下向は延元二年(建武四年、1337)とされる。同年に奥州北軍の重鎮・尾張家長(家兼の甥)が鎌倉で討ち死にを遂げ、石塔の反抗や、吉良・畠山の内訌による退潮に向かう北朝の弱体を補強と探題の権威の回復の為に派遣された。時に家兼三〇歳である。ただし、家兼は探題として派遣された記録はなく「左京権大夫」として各書状に見え、二年ほどで没したと言われる。貞和二年(正平元年、1346)家兼は河内(宮城県古川地方)に入り、大崎氏の居城は師山城、中新田城など諸説あるが、府城と定められた名生城以外は確証がないがこれが探題府であろう。
 二代直持、三代詮持は前探題家である石塔・吉良・畠山の僭称を払拭し、探題職を世襲する。玉造・志田・加美郡などに探題料所があったと考えられ、これを領有して奥羽の監督官として君臨した。二代直持は将軍尊氏の後盾を背景に権勢を強めており、奥羽諸士、伊達・葛西・南部を下座に置くという支配体制を確立する。  応永二十年(1413)「伊達持宗の乱」で、斯波探題は伊達氏を支持したことで、鎌倉府派の畠山国詮が派遣されたが、半年も費やしながら持宗を討ち漏らしている。また、南部氏などの旧南朝勢力も斯波探題の権威を認め、任官などを要請している。
 四代満持は詮持の生前から代行していたようで、「小山若犬丸の乱」の際に南奥の石川蒲田氏や和賀氏に文書を発行している。父同様に鎌倉府との対決姿勢を取り、応永二十年(1413)の「伊達持宗の乱」でも伊達氏を支持している。さらに嫡子満詮を伊達氏の懸田城へ送って応援している。
 こうして斯波大崎氏は奥州の雄として戦国時代に至るまでその勢力を維持していくことになる。とはいえ、その権力は決して確固たるものでもなかった。

高清水氏の分出

 大崎宗家を介けた支流に、高清水氏がある。初代高清水持家は四代満持の弟であった。大崎府城の西に高清水城があったことから「大崎西殿」と呼ばれた。
 しかし、高清水氏はその後断絶したようで、八代政兼の弟定家が家名を再興した。定兼にも子がなく、甥で九代義兼の子直堅を養って嗣子とした。この頃、大崎氏には内紛が起こっていた。すなわち、大崎義隆の寵童であった新井田刑部と伊庭野惣八郎の争いが家臣を二分する戦いになり、刑部は義隆を抑留して家臣の大半を同心させ、伊庭野方は氏家吉継を頼って、さらに吉継は伊達氏を頼って援軍を求めた(『伊達正統正次考』)。その為、氏家党救援の名目で伊達の軍勢が大崎領内に侵攻し、大崎主流派と中新田城を中心にして激突。天正十七年(1590)に伊達氏の会津征伐が完了すると、奥州の覇者、伊達政宗の前に無条件降伏の形で服するより他に道は無かった。
 そして、翌十八年(1591)の小田原征伐に領内不穏で参陣が叶わず、室町以来の名門大崎氏は滅亡した。直堅の嫡子高景は主家滅亡後、伊達氏に仕えた。



■参考略系図
 
  


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