下氏は桓武平氏三浦氏の一族といい、三浦介義澄の子大河内胤義の孫胤氏が奥山庄北条の関郷に入部し、関氏を称したことに始まる。関氏は三浦和田一族の黒川氏を惣領として、その指揮下で活動したことが知られる。 南北朝時代、関氏は黒川氏とともに北朝方に属した。正平七年(1352)、新田義宗らが上野で挙兵したとき、越後の南朝方はこれに呼応して北朝方の拠点である黒河城を攻撃した。関郷の地頭関義胤は老体であったため、嫡子の胤清を代官として派遣し、黒河茂実とともに黒河城の戦いで勲功をあげた。 その後、関氏と黒川氏の関係は悪化し、貞治二年(1363)、黒川時実が証文をたてにとって関郷に入り込み、関胤清は実力でそれを阻止するという事件が起った。時実は幕府にこれを提訴したため、幕府は胤清を召還したが胤清は応じなかったため、敗訴して関郷は時実の所有となった。 以後、関氏の動向は断片的にしか伝わらないが、関胤氏の子孫として関郡の分地頭の落合実秀、黒川氏の重臣に関下実儀などの名が史料に見えている。 戦国時代の下氏 戦国時代になると、関城将下重実の名があらわれてくる。越後守護の上杉定実は男子が無かったため、米沢の伊達稙宗の子実元を養子に迎えようとした。実元は揚北の有力者中条藤資の甥にもあたっており、他の揚北衆である本庄・色部氏らが反対の姿勢を示した。結果、伊達=中条勢は本庄氏を攻撃して、これを没落させた。その後、稙宗は実元を越後に送ろうとして、関城将下重実に途中警護を依頼した。しかし、養子の一件は稙宗の嫡子晴宗が反対したことで伊達氏家中に内訌が起り挫折してしまった。 関城将下重実は、関下に居住する関氏の子孫で、このころには黒川氏から離れて、守護上杉氏の被官として活躍していたようだ。やがて、越後は長尾景虎のが登場で一国の統一がなされ、上杉定実が死去したことで名実ともに景虎が国主となった。 そのような天文二十一年(1552)、下伊賀守重実は、景虎の怒りにふれ林泉寺において切腹を命じられた。『太祖一代軍記』に「前方不義ありし輩、又は野心がましく頭をあげる大身の者共十六人、林泉寺にて切腹申付けらる」とあって、重実も十六人の一人に入ったものと思われる。 重実の長男久長は、謙信死後に起った「御館の乱」で景虎方に与して勇戦、天正七年(1579)、刈羽郡赤田の合戦で討死している。次男の秀久は、後北条氏に属して上州沼田にあったが、天正十八年(1590)後北条氏が滅亡したのち景勝に仕えた。秀久は次右衛門、新兵衛、対馬守を称し、吉忠・康久とも名乗った。 ところで、天正十四年に最上氏と上杉氏が争った蕨野合戦に、本庄繁長に従った武士に下次右衛門の名があり、ついで、天正十六年の十五里原の合戦に本庄繁長に従った武士に土肥半左衛門・原八左衛門とともに下次右衛門が参戦している。また、秀久は土肥政繁の娘を室として秀実を生している。これらのことから、秀久は後北条氏が滅亡する以前において上杉(長尾(氏に仕えていたものと思われるのである。 下氏の有為転変 文禄二年(1593)、庄内河南(田川郡など)の代官となり尾浦城主を勤めた。そして、慶長六年(1600)関ヶ原の戦いでは上杉軍別働隊として、庄内から六十里越を越えて最上義光を攻め、白岩・谷地・寒河江の諸城を落す破竹の進撃ぶりを示した。しかし、直江兼続が西軍の敗報を受けて撤退を開始したとき、秀久は逃げおくれて谷地城に立て籠った。 以後、七日間にわたって籠城したが、矢玉もつき、庄内攻撃の先手をつとめる条件で降伏が認められた。翌慶長六年、最上義光は庄内進攻を開始し、秀久は先陣として参戦し、軍功をあげ大山城将に任じられた。以後、下氏は最上氏に仕え、秀久の死後は嫡子秀実が大山城将をつとめた。 慶長十九年(1614)、最上義光の死後、家中に内紛が起り、清水大蔵大輔義親と通じていた一栗兵部が、鶴岡城内で志村光清と下秀実を襲撃し二人とも討ち取られた。兵部は最上氏の内紛に乗じて独立した大名に成り上がろうとしたのだという。 秀実の横死後、秀久の養子秀政が家を次ぎ、元和八年(1622)最上家が改易になると、秀政は上杉家に戻り、寛永五年(1625)、米沢藩侍組に編入され、子孫は米沢上杉藩士として幕末を迎えた。 ところで、「御館の乱」で戦死した久長の系は、三日市に定住して代々大庄屋と本陣を勤め、当主は兵右衛門または甚兵衛を名乗った。三日市藩の財政にも深く関与したようで、勘定方として勤士した一族もいたという。そして、家紋は「丸に三柏」を用い、子孫は現在まで続いている。 【参考資料:関川町史 ほか】 ■参考略系図 ・実清から重実に至る部分は調査中、また、実清…助義…実儀…重実は直系か?。ご存知の方ご教示をお願いします。 |