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関口氏
丸に二つ引両
(清和源氏今川氏一族)


 駿河の守護で戦国大名としても著名な今川氏の祖は、足利義氏の二男有氏の子国氏とされ、国氏は伯父長氏の養子となった。『尊卑分脈』によれば、養父長氏の三河吉良・今川両荘などのうち、今川荘内の数郷を伝領して、今川太郎、あるいは今川四郎と称したという。
 その子基氏の代において、今川氏庶流が分立した。家督を継いだ基氏は今川太郎を称したが、次男常氏が関口次郎、三男俊氏が入野三郎、四男政氏が木田四郎を称し、初期今川氏庶流家を形成した。
 なかでも関口氏は、三河国宝飯郡長沢村関口を発祥とし、初代経国より六代教兼までは三河国宝飯郡関口庄を分国治領地とした。地名の関口は長沢村西端を関屋といい、そこを通る古道の入り口に関所を置いたことに因むという。現在も登屋ケ根城などの居城祉が残り、山麓の長寛寺には関口氏代々の五輪塔がある。
 関口氏の当主は、代々、刑部大輔に補され、五代満興は従五位下越後守に叙任した。『足利武鑑』には、一詰衆大名今川関口刑部大輔とあり、足利一門の大名として記されている。嘉吉二年(1442)、今川氏の名代として室町殿に参府、以来伊豆守氏教の代まで室町幕府御家人の地位にあった。

乱世に翻弄される

 教兼・政興は今川氏親に仕え、明広年中駿府の守りにつき、府中城の外城花沢持舟城を筑城し、同城に在住した。政興は天文十七年(1550)、今川、織田合戦の時三州小豆坂において戦傷、その傷がもとで同年九月三州大滝城にて死亡した。その子氏緑は永禄三年(1560)、今川義元の上洛の軍に参加し、桶狭間の合戦において戦死した。
 氏緑の跡は、氏興が継いだ。氏興は『関口系図』には刑部大輔和泉守とあり、『瀬名系図』には陸奥守氏貞の二男義広伊豆守、刑部大輔政興の養子となるとし、今川・関口系図、瀬名親類書上げには氏広、義広、氏興は同一人で妻は、今川氏親の娘で義元の妹と載せている。いずれにしても、関口氏興は瀬名陸奥守氏貞の二男で、関口政興の養子となったものであろう。氏興の娘は徳川家康の室となり「築山殿」と称され、信康を生んだ。
 桶狭間において、義元が織田信長の奇襲によって討死したのち、駿河の用宗城にあった。ところが、義元の跡を継いだ氏真にその去従を疑われ、永禄五年(1562)今川氏真により駿府尾形町の屋敷にて切腹を命じられて果てた。
 氏興自殺後、氏教が氏真に命じられて家督を相続したが、すでに関口氏の旧領花沢持舟四万二千石は氏真に没収されており、初代経国以来領有した三州関口庄は松平氏の攻略によって失っていた。そのため、岩淵分だけが関口氏の知行所という寂しさであった。しかも、その岩淵も天沢寺領として次々に今川氏に没収されるという状況であった。氏教の死亡の時期は不明で、家伝譜に、ただ駿州にて死亡と伝えられるばかりである。
 永禄十一年十二月、駿州興津河原の戦で、今川氏真に向背した一門衆のなかに瀬名陸奥守兄弟をはじめ、多くの譜代の重臣、一門衆がみられる。また、今川氏家臣団の将士が、武田信玄に内通したことは、史実に認められるところである。関口伊豆守一統も、義元戦死以来、ことあるごとに氏真に事を構えた譜代の重臣の一人であったろう。
 やがて、今川氏が没落すると、関口氏の子孫は徳川家に仕え旗本として続いた。また、紀州藩に仕えた関口流柔術の始祖・関口氏心もこの関口一族という。



■参考略系図
 
  


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