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信濃三村氏
三つ引両/剣酢漿草/三つ柏
(清和源氏頼親流)


 信濃国荒馬郷に本拠を置いた三村氏は、その出自に関して諸説がなされている。伝わる系図によれば、清和源氏頼親の後裔という。すなわち多田満仲の次男頼親の後裔というものである。
 『尊卑分脈』の頼親の項をみると、頼親は大和・周防・淡路・信濃などの国司に任ぜられたことが記されている。信濃守に任ぜられたのは『国司表』によれば長保元年(999)とあり、在任中は信濃国洗馬郷に居住した。その後、大和守に任ぜられたが、その在任中に興福寺に訴えられ土佐に流された。赦されて帰洛したのちに再び信濃の洗馬郷に下って、康平七年(1064)同地で死去したという。これが、のちの三村氏と洗馬郷との関わりの始めということになる。
 分脈によれば、頼親の九代の孫に仲宗がみえ、その子に親綱とあり、仲宗・親綱の代に鎌倉幕府は滅亡し南北朝の内乱の時代となったが、詳しい動向は定かではない。

中世の信濃争乱

 親綱には数人の男子があり、嫡子親継、次男の親光は、守護小笠原氏と国人一揆が戦った「大塔合戦」に際して一揆方として出陣、兄弟ともに戦死している。
 『大塔合戦記』によれば、三村孫三郎種貞の名が記され、種貞は親継のことと考えられる。この事件における三村氏の進退は、当時、北信濃において三村氏が洗馬郷を本拠とする国人領主として一応の勢力を保っていたことを示している。
 応仁の乱を経て戦国時代になると、信濃も戦乱が止むことなく続き、守護小笠原氏も分裂して一族が互いに争うようになり、その支配力にも翳りがみえてきた。信濃国は南北に長く、戦国時代には北信濃に村上氏、南信濃に木曽氏、そして中信濃は小笠原氏が割拠し、それぞれに国人領主が加担して興亡を繰り返した。
 天文元年(1532)松尾小笠原定基が下条氏を攻めた時、府中小笠原氏は下条氏を支援し合戦が展開された。この争乱に、三村修理大夫家親は小笠原勢に加わり、松尾城攻めに功を立てている。家親のあとは忠親が家督を相続した。
 天文年間、隣国の甲斐では武田晴信が父信虎を駿河に逐って家督を継ぎ、信濃侵略の機をうかがうようになった。小笠原長時、村上義清、諏訪頼重、木曽義康の信濃四将は機先を制して晴信を叩こうと、甲信国境に一万六千の兵を出したが、晴信の兵八千に打ち破られ敗退した。以後、武田氏は信濃進攻を繰り返し、小笠原氏の支配領域は、武田氏によって確実に蚕食されていった。
 天文十七年(1548)七月、小笠原長時が甲斐の武田晴信と雌雄を決した塩尻峠の合戦において、三村駿河守長親は長時に離反して武田方となり、長時大敗の主因を作った。

三村氏の滅亡

 以後、長親は武田氏に属したが、天文二十四年正月二十八日、甲府一蓮寺において、長親主従二百余人は晴信によって撫で斬りにされたと『三村氏系図』に記されている。
 長親らが信玄に殺害されたことを知った洗馬の一族は一揆を起こして、武田氏に抵抗したが、深志城代馬場美濃守によって制圧された。三村一族は戦死あるいは生け捕りされ、三村氏の領地はことごとく没収となり、三村一族は没落したのである。
 長親の嫡男長行は、叔父にあたる岡田伊深城主で洗馬郷をも管掌していた後庁城主の後庁出羽守久親の養嗣子となって後庁を相続し、これを名字とした。長行は、天正十年(1582)六月、当時、深志回復を目論んでいた小笠原貞慶より、後庁の名字相続と洗馬城堀廻三千貫文の知行約束を受け、さらに、その後すぐ、その忠節を賞されて小笠原家の奉行人に列せられた。
 小笠原家を裏切った父長親と異なり、長行は貞慶に忠勤を励んだことがうかがえる。


三村氏異聞

 戦国時代、三村氏として有名なものとして備中成羽の三村氏が知られる。『信濃史源考』には、三村修理大夫家親は洗馬の領地を嫡男の忠親に譲り、みずからは毛利氏の招きを受けて備中に赴き備中三村氏の祖になったと記されている。しかし、備中の三村氏は鎌倉時代から地頭職を有し、後醍醐天皇の蜂起にも従ったことが知られている。家親が備中に赴いたとする説は、にわかには信じ難いものといわざるをえない。
 さらに、『史源考』の記述も、宇喜多直家を秀家とするなど記述に誤りも多いことから、同時代の信濃三村家親と備中三村家親を強引に同一人物とした荒唐無稽な説というしかない。ちなみに、備中三村氏は小笠原氏流を称していることから、信濃との関係を家親の事蹟にこじつけたものであろう。

【参考資料:戦国大名家臣団事典(新人物往来社刊)/信濃史源考 ほか】


■参考略系図
・下記系図は、信濃史源考に収録された系図を底本として作成しました。


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